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「シンポジウム 詩とはなにか、小説とはなにか」覚え書き(感想)

5/6開催の法政大学国際文化学部主催のオープンセミナー
「シンポジウム 詩とはなにか、小説とはなにか」
へ詩が不得手なのに聴講しに行きました。
登壇された詩人の山﨑修平さんとは博士課程の指導教授が同じというゼミ仲間で、日ごろ大変お世話になっているにもかかわらず詩については
「(鈴木には)情緒がないので分からない」
といつもモヤモヤした回答(というか事実)しか返せない自身を反省して
何か得るものがあれば……、と出席。
とは言うものの、その奥底には
「詩の巨人、生の吉増剛造氏をこの目で見たい!」
そして、吉増氏と山﨑さんとの
「対決!(実際は対談)」
を見たいというヨコシマな考えがありました。

内容は、
前半は、国際文化学部の大野ロベルト先生を司会に、歌人の瀬戸夏子さん、書評家の渡辺祐真さん、山﨑さんの対談。
後半は吉増氏と山﨑さんの対談
という充実の2部構成。

前半は、主に「形式」への提言だったと思いました。
小説で書けることと詩で書けることの違いはあるけれども、書くにあたってのフィクション性の問題について等は両者が近づくものがあるといったもの。
そして、教育と文学について。
これは聞いていて、いわゆる韻文には明治期に分断点があるとされていること。自分は義務教育の「国語」の出現が大きいものだと感じました。韻文の入り口って「国語」なのですよね。ファーストインパクトをどのように受けたのかによって、その後の韻文の受容が決まる要素が大きい。
確かに、小学校の時に先生から「書け」と言われてイヤイヤ書いていた記憶が……。だから、いまだに「情緒がない」という逃げになっているのかも知れません。

後半の話題は〝詩人が書いた小説〟として、
山﨑さんの
『テーゲベックのきれいな香り』(河出書房新社)

「新潮」2023年5月号掲載の新作「愛がすべて」
について吉増・山﨑の両氏が語るという運びの予定だったようですが……。

もう、吉増氏が作品をベタ褒めで山﨑さんが照れてしまって答えを返せないという、微笑ましい展開に。
そりゃ、吉増氏に手放しで褒められたら
「ありがとうございます(汗)」
しか言えない。分かります。
(「これからは山﨑とつき合うからね」と仰った吉増氏のチャーミングさと山﨑さんの恐縮っぷりは文字にできない!)
で、その中で吉増氏が放った
「普通の小説は続き過ぎている」
のことばが非常に印象に残りました。
吉増氏は対談でこの小説には
「太古からの忘却の彼方にある穴倉がある」
と評価していました。
つまり、乱暴にまとめてしまえば〈断片的である〉ということですかね。
これは、一つ間違えば〈小説が破綻している〉という評価に繋がります。
実際、山﨑さんの小説は、時系列や空間や登場人物の関係性が分かりやすく一直線にスーーッとある小説ではありません。あらすじ書けないですし。
人によっては「小説じゃない」とまで言う人もいるでしょう。
私は法政大学日本文学科のホームページにこの作品のレビューを書いたのですが、やはり自分もこの断片的な作品に潜む「穴」、作中のことばで示すなら切り取られた「瞬間」の連鎖がこの作品を他の小説と一線を画すものであると感じました。

切り取られているから、当然隙間というか「穴」ができる。
でも、日常ってこの「穴」だらけのような気が私はします。
しかし、いかんせん「穴」なので文学作品にする際に文字にすることは難しい。難しいけれども人の営みを書く小説という表現手法では空白を作らないためになんとかせんといかん。だったら文章で繋いで書いてしまえばいい。
ということで、結果的に吉増氏の言う「続き過ぎている」小説になるのかも、などと感じました。
私は良い意味で「破綻」した小説は好きです。三島のような隙を見せない、完璧に構築された小説(←この見解も再考する必要ありますが)も良いですが、例えば中上の「異族」のような「なんじゃこりゃ」という小説、構築されていない物語も拾ってしかるべきという考えです(なので拾ってる)。
ということで、自分の研究に引き付けて感想は終了しますが、山﨑さんの小説は詩でも小説でもない「文学」作品、ジャンル横断の先駆的作品として読むと良いかと思います。