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give&giveを目指さない

あけましておめでとうございます!!本年もどうぞよろしくお願いいたします。新年から素敵な人・時・場に恵まれ、年始から絶好調のうららです。

2021年振り返りnote書いている途中(もう1月中旬なのに!!
!!)ですが、一旦休憩。最近考えていることをこのnoteに。


さっそくですが、give&giveをめざそうとしなくても、自分にとっても相手にとっても、良いコミュニケーションってできるのかも、と嬉しくなっちゃったことがあったので、共有させてください。

1年ちょっと前に書いたnoteに以下の文章があります。沢山のすごい人たち、おもしろい人たちに会いながら、彼らと会うこと・話すことの楽しさを感じながらも自分とのギャップを感じて、背伸びしてみたり、落ち込んでみたり、迷ってみたりしていた時期の私です。今も、なんだかんだこんな私も多いのだけれど。

でもね、そうした人の話を聞きながら、相手にとって私と話してる時間ってもったいないんじゃないかなあ、とか思ったりもした。(話聞いてるときは楽しすぎてそこまで考えてないんだけど、話を聞く前とか後とか、特に前)
なにもしてない私なんかと話して、私はもらえることがいっぱいだしめちゃくちゃ楽しいんだけど、相手にとってはただgiveしているだけで、私と話して何も生まれない、win-winの関係じゃないよなあって。
私と出会うことで、私にとっても相手にとっても何かプラスのものが生まれて、出会えて良かったと思ってもらえるような人になりたいと思った。今でも思っているのだけれど。、

最近高校生とがっつり対話する機会がありまして。彼女と話しながら、彼女がこんなような思いを抱えていることを知りながら、その時は、共感しただけで、ちゃんとこたえることができなかったな、と。でもそのこたえがやっとみえた気がするので、過去の私、そして、葛藤しながらも想いを打ち明けてくれた彼女へ向けて。いつか会うことがあれば、伝えられたらいいな。

ーー

誰かと話す時、相手に、こんだけ相手からいただいているのだから、お返ししないと。でも、なにも知識も持ってないし、気の利いたこともいえない自分が話したところで、この人の役には立たないだろうな。だから話したところで申し訳ないな。でも、相手になにかしらgiveしないと。でもいったい何をgiveできる??

なんだか、今この時間ってこの人にとって価値のある時間になっているのかな、とか、私なんかと話してる時間この人にとってもったいなくないかな、申し訳ないな、とか、色々ぐるぐる考えちゃう。考えちゃう。


例の高校生(Aとする)が私と話しているとき、Aが「私の話を聞いてくれるのは嬉しいけれど、やっぱ(うららに)申し訳ないと思っちゃう」と呟いた。

そこに共感したと同時に、Aがかつての私の姿と重なり、私が見上げていた対象の位置に私がいる、という状況にハッとさせられた。自分が見つめる対象だったものに、自分がなったとき、みえてくるものがある。

私はAと話しながら、Aの内面について一緒に考えることができてとても楽しかったし、私自身気付かされることが多すぎたし、なにより私は人が心にあるものをことばにしようと真剣に考えている瞬間が好きすぎるので、私からの問いかけに対し真剣に考えてくれてありがとう、とむしろこちらからAに対して感謝しかないのだけれど。それはそうと。

自分ばっかり、と、申し訳なく思わないでほしいな、と思った。

私はAを通して(他の生徒を通しても)、傲慢かもしれないけれど、でも確実にうらら自身の価値を見出すことができた。Aと話すことによって、私がいた価値があったな、と思えた。私と話したことによって、Aが自分の思いに気づけた瞬間、それを信じてみようと決めた瞬間がうまれ、その瞬間を共有することができたこと、とても嬉しかった。今回の私とAの対話では一緒にAの価値を探しにいくような感じだったけど、それをすることによって、その行為の中に私の価値が見つかった。Aがいなければみつかっていないかも。だから、ありがとう、なのだ。決して申し訳なくなどないのだ。

話を聞く態度について考えることがあった。相手からの話を受け、それに対し、相手に自分の価値観を訴える。相手の考えVS自分の考え。相手からの話によって自分の価値観が影響され、お互い影響を受けながらにょろにょろと会話が進んでいくのはよいけれど、そうでない、VSのコミュニケーション、というか、どっちもgiveしよう、giveしよう、を考えているコミュニケーション(これがエゴのgiveなのかも)は、なんだか、ぎこちない。ムッとしてしまうこともある。別にあなたがそれでいいんだったらいいんじゃないの、私と話さなくてもそれを信じてるんだったらそれでいいんじゃないの、と。そしたらどんどんすれちがっちゃって、なんだかお互い不満になってしまったり。することもある。

私は、なにか話をするときに、自分の考えをもてない自分がずっと嫌だった。なにかしらの考え、アイディア、を相手に伝えて、建設的な会話がしたい。そうでないと、相手にとっての意味のある時間にならないのでは、と思っていた。だから、なにかgiveしなくては、と思っていた。

でも、きっとそうでなくていい。なにか自分なりの考えを持てなくても、相手に影響を及ぼそうとしなくても。

相手からのgiveによって自分がそれをtakeしたことで、自分に変化があったという事実自体が、相手のいる意味を裏付けている。のかもしれない。そんな気がする。

相手にgiveすることを目指さなくても良いのだな、と思った。安心した。別に変化すらなくてもいいかも。ただ、相手にあなたがいてくれてよかったと行動で伝えること。というか、そもそも、その場や相手の言葉に集中し、きくこと、うけいれること、理解しようとすること、その行為事態が、相手にとってなにか良いものになっているのだと思う。それは、相手への感謝や、相手への思いやりの気持ちなのかもしれない。

今回Aとの対話のなかで自分の価値を感じられたのは、Aの姿勢によるものだったのだ、きっと。ありがとう。

そして、私も、「自分が」「自分が」じゃない、そんなコミュニケーションをしていきたいな、と思ったのでした。


メモ:共感、興味、フィジカル的な聴き方・聴く姿勢

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