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私の場合、誰かに読まれることを前提に書いた文章は死ぬ。

ありがたいことに私のnoteを結構観てくれてる人がいて、初めてnoteを書いている時よりも「読者」を意識するようになった。でもなんだか読んでくれてる人に面白いと思ってもらおうとして、結果何を書きたかったのかわからなくなることがちょっとある。頭に思い浮かんだことを適当に、つらつら書いている方が私にはあっているらしい。

思い返せば、「読まれた上で評価される」とわかっている文書はずっと書くのが苦手だった。例えば高校生くらいから書かされる小論文。ご丁寧に赤ペンを入れられて返ってくるそれが嫌いだった。「この箇所はいりません」?私には必要だから書いたのに。誰かからのレスポンスがついているプリントは基本的にちゃんと読む。自分に向けられた言葉に興味があるから。でも会ったこともない誰かに「いらない」とか書かれるのは嫌いだった。

代わって、読書感想文は好きだった。夏休みの最後の週に手をつけるのが定番だったけど、好き。本を読むのも好きだし、それについての感想を好きに語っていいならなおさら筆が進む。筆で書いたことないけど。読書感想文だって担任に見られるのは確実だけど、その文に文句をつけられることはない。

ここまで書いて思ったけど、私は自分が書く文章に救われてきた人生だったのかもしれない。小学生の時、夏休みの自由作文がいい感じに書けてたらしく、市の文集的なのに載った。なんだかわからんかったけど、「選ばれた」ことが嬉しかった。中学生と高校生の時も何度か読書感想文が学校の文集に載った。この時くらいには「今回は載るかな、載らないかな」って、楽しみにしてる自分がいた。大学。部活の顧問が世界史の先生だったにもかかわらず世界史は壊滅的に成績が悪く、むしろ世界史さえなければ国語と英語はいい感じなのに...みたいなありさまだった。今の大学に入ったのも世界史を使わない入学方式だった。そして小論文。何を書いて提出しても文句は言われない。楽しんで書いた気がする。その結果、入学を許可された。ありがてぇ。でもレポートは苦手。社会に出ても配属によっては文章を仕事にすることになりそうだ。

今まで考えたことがなかったけど、私は文章を書くのが好きみたいだ。ただし、頭の中垂れ流しのものに限る。

なんだこの山もオチもない文章!いくら垂れ流しだからって、これはひどい。

でもね、やっぱり誰かが読んでくれているのはとっても嬉しい。Twitterのいいねとか、記事にくるスキとか、あぁ、誰かが読んでくれたんだ、ってなる。私は誰かに「選ばれるかどうか」で自己肯定感が生まれるらしい。

せめて選ばれる努力でもしようかな。何をどうしたらいいのか誰か教えてください。(丸投げ)

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