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葡萄

わたしの部屋には窓がある。両開きの縦に長い窓だ。窓の向こうには沼が見える。沼は広く、そして深い。湖のように青く透き通っている時もあれば、玉虫色に妖しく光っている時もある。時折、沼の遠く向こうで白い龍が沐浴をしているのを見かける。憂いを帯びたアーモンド形の瞳、真っ白な長い睫毛。優雅に胴体をうねらせて水と戯れる。

龍は雌で、ロマンチストで、強大なエネルギーを持っている。おそらく原始の頃からずっと生きていて、今はキョウコの中に棲んでいる。わたしや梗香と同列の存在ではない。気高い、神のような存在だ。

執筆が思うように進まなくなり、わたしは万年筆を机に置いた。葡萄をのせたガラスの器を手に、わたしは窓辺に立った。沼は鈍色で、ひっそりと凪いでいた。紫色の葡萄を一粒、二粒口に運ぶ。甘酸っぱさがじんわりと頭の疲れを解いていく。

ふいに水面がキラキラと白く光った。わたしは額の上に乗せていたセルフレームの眼鏡をかけて、その光をじっと見つめた。光はだんだん強く大きくなり、わたしは目が眩んで伏せた。瞼の向こうの光が落ち着くのを待って目を開けると、龍が窓辺に来ていた。白く長い胴体をスッと立てて、こちらをまっすぐ見ている。瞳の色はガラスみたいな薄いグレーだ。わたしと龍は静かに見つめ合った。

葡萄を、と龍が言った。聞こえたのではない、龍の言葉は直接脳に響いてくるようだった。わたしは窓を開けて、葡萄の房をそっと差し出した。大きな口を上品に開けて、龍は葡萄を飲み込んだ。伏せられた目を縁取る長い睫毛を見ていた。なんと美しい龍なのだろう。満足げに龍は口の端をふわりと引き上げた。

影が欲しいか?

龍は私に尋ねた。わたしは影を持たない。個体としての実態がないからだ。わたしは何も答えずに話の続きを待った。龍のグレーの瞳の色が深くなった気がした。

龍はわたしに提案した。

京、おまえはキョウコの体から出て行く。そうすれば、影が与えられて一人の個になる。そして別の誰かの物語を書いていく。ただし、キョウコの物語は二度と書けなくなる。

わたしは黙った。キョウコ以外の物語を描く気はなかったし、この先も考えたことはない。龍は静かにわたしを見つめた。言葉にしなくても伝わるのだろう。

梗香は?梗香をキョウコと二人にはできない。あの気性の激しさで、今までも随分と危ない橋を渡ってきたのだ。わたしの脚本なしで野放しにしたら、極限のことになりかねない。男を刺すか、自殺するか。わたしがもしキョウコから出て行くのなら、梗香を連れていかなくては。

梗香はこちらで引き取る

龍は言った。引き取る?わたしは固唾を飲んで、続く言葉を待った。龍は口元をスッと引き上げて微笑んだ。そして胴体をしなやかにくねらせて、腹の部分を見せた。そこには螺鈿細工のような色鮮やかな鱗が密集していた。水滴をまとった鱗は妖艶に輝き、あまりにも美しかった。わたしは陶然として、目が逸らせなくなった。

梗香はこの鱗の一部なのだ、龍は言った。ここから一片剥がれた、紫色の鱗だ。それをおまえが沼のほとりで拾った。

また来る、その時までに決めておくといい。

龍はそう言って、沼にするりと潜った。水面がキラキラと白く強く光った。眩さがおさまると、大きな水紋だけが残った。

わたしはしばらく茫然としていた。鱗を拾った?記憶をたぐり寄せようとしたが、ぼんやりと意識が霞んだ。梗香を初めて見た時、紫色の花のようだと思った。それで桔梗から一字もらって、わたしが名をつけた。

机に戻って煙草をくわえ、銅色のライターで火をつけた。指先が震えてうまく火がつかなかった。窓辺に立って、煙を吸い込みながら沼をぼんやり見つめた。水面は鈍色に戻り、ビロードのように波一つ立っていない。龍の声の余韻が脳に残っていた。それは荘厳な鐘の響きに似ていた。寄り掛かりたくなるような、帰りたくなるような音。

わたしがキョウコから出て行き、梗香を龍に返す。そして京という女は一人の個体となる。それがどんなことなのか、わたしにはうまくイメージできなかった。

ふと視線を落とすと、窓際のサイドテーブルに空っぽのガラスの器が置かれている。さっきわたしは確かに、龍に葡萄を差し出したのだ。

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