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薔薇

私は眠っていたの。それは長く、深い眠りだった。広くてふかふかのベッド、真っ白なベッドカバー。柔らかい羽枕に半分だけ顔を埋めて。サイドテーブルの大きな花瓶には、白い薔薇が沢山生けられている。薔薇の香りに包まれて微睡むのは気持ちがいい。私は桔梗の名を持つけれど、自分を薔薇だと思うこともある。

ここは地下三階で、地上からは遠い。長い階段を降りると六角形の広いスペースがあって、いくつか扉がある。その中のひとつが私の部屋。斜向かいの扉は京さんの部屋らしいけれど、出入りしているのは見たことがない。他の部屋は誰が使っているのか知らない。昔、真っ白な龍が住んでいる話を聞いたことがある。

ある夏の夜、誰かが私の扉の鍵を開けた。カチャリ、と静かな音がして、私のベッドの前に人の立つ気配がした。ゴツゴツした大きな手が、私の長い髪に触れた。男の人だ。その人は、私の髪に顔を埋めて匂いをかいだ。私は微睡みから目覚めて、誰?と尋ねた。見上げると知らない男の人だった。どこの星の人?そう尋ねようとしたけれど、うまく言葉にならなかった。開け放した扉の向こうから、微かな風が入ってきた。地上の夜の気配。遠くでキョウコの声を聞いた気がした。いい匂いがする…彼は私を抱きしめて、うなじに鼻先をつけた。

そうやって私は目覚めて、女優になった。猫足のバスタブに浸かって、寝起きの時間をのんびり楽しむ間もなく。地上に出てみると、すでに撮影は始まっていた。舞台は夜で、真四角で広い、そっけない空間だ。ここは誰かの部屋なのだろうか。カーテンのない細長い窓から、月明かりがさしている。部屋の真ん中にある黒いソファーで、女がくたりと眠っている。カーキ色のシャツ、白のタイトスカート。キョウコだ。私はテーブルの上のグラスを持ち上げて、半分残った赤ワインを飲む。ゆっくりと、地上の風に馴染むように。

梗香ちゃん、ようこそ。
振り返ると後ろに京さんが立っていた。長めのショートカット、華奢な肩に纏った黒いシャツ。左手には台本をクシャッと丸めて持っている。いつもと変わらない姿だ。今、彼女は麻酔で眠ってる。何時間か目覚めないと思うから、台本なしで好きに動いてみてくれる?キャストはあの人。京さんが部屋の奥を指す。私は頷く。

私は長い髪を手櫛で結い上げながら、ベッドサイドに座った男の人を遠く眺める。さっき扉の鍵を開けて、私を起こしに来た彼だ。あの人、名前何ていうの?私はそばにいた撮影クルーの一人に尋ねる。

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眠れない夜に

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