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デルフィニウム

窓の外の空は、夕暮れが始まろうとしていた。お茶を淹れましょうか、と私は聞いて、それは違うなと思った。さっき喫茶店でコーヒーを飲んできたばかりだし。椅子に座った彼を立ったまま抱きしめた。約束のハグ。彼は額を私の鎖骨に押し付けるようにして、背中に回した腕に力を込めた。私は不思議な思いでその力強さを受け止めた。こんな風に、縋るように抱きしめられたことが今まであっただろうか。テーブルの上の花瓶に生けられたデルフィニウムの青を眺めた。風が吹いてカーテンが微かに揺れる。彼が体を離して、私を椅子に座るよう促した。されるがままの人形みたいに私は座って、彼を見上げた。滲むように。屈み込んだ彼の唇が私の唇に重ねられる。

ずっといたくなっちゃうから、そう言って彼は帰っていった。私は玄関先で彼を見送った。私はデルフィニウムと一緒に残った。

カットがかかる。いいシーンが撮れたようだ。私の中にいる脚本家は、突然訪れたシチュエーションで即興のシナリオを書いた。たとえば晴れた夏の夕暮れに、つい心がゆるく解けてキスをされてしまう女。意志をなくしてしまったようにゆらりと揺れて、どうにでもなりそうな風に体の力を抜いて。始まりの予感だけがあって、まだ気持ちがあやふやな時に相応しいキス。無数にあるパターンの中で、最適なシチュエーションがある。それを瞬時に選び取るのはそれほど難しいことじゃない。

女優は演技の出来に満足して、ふんわりと横たわる。撮影監督はカメラを引いて編集作業に入るようだ。今回のキャストはいいね、と話す声が聞こえる。

皆の気配が遠のいていくのを感じて、私は立ったままグラスの水を飲んだ。デルフィニウムにふんわりと微笑みかける。賑やかになってきたね。

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