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梗香

彼は同じ場所にいるのを好む人だ。同じカレー屋、同じバー、同じカフェ。いつものルーティン、心が揺れることのない日々。私のランダムなエネルギーはそこに収まるのだろうか、という疑問があった。その一方で、彼のルーティンの一部として溶けていくのは、体感として面白いかもしれないと思いついた。それはどういうことなのだろう。私が実態を失って、静物画のようになっていくことなのか。

キャストの持つ、静謐なルーティンに溶けていく女。物語としてもいい展開だと思った。耽美的な空気も感じられる。わたしはキョウコの意見に同意した。時間をかけてシーンを撮っていくのが良さそうだ。でも、女優は飽きてしまうかもしれない。梗香は心の揺れを愛する女だ。

彼と四度目に一緒に行ったカフェは、二度目と同じ場所だった。相手の希望を考慮して。店の二階の大きく吹き抜けた席に、並んで座った。アイスコーヒーはくっきりと濃くて美味しかった。彼はポーションミルクを半分入れて、ストローでかき混ぜた。細長いグラスのキャメル色を私は眺めた。

僕は大阪より西に行ったことがないんです。彼は言った。ほとんど旅行をしない人のようだった。私は京都の話をした。京都で友達と落ち合って、ふたりで旅をしたことがあったなぁ。お昼過ぎに三条で待ち合わせて、翌日の夕方に吉田山で別れたの。違う場所で仲いい友達と会うのって、ものすごく楽しいですよ。同じ場所でいつもの友達と遊んでるだけだと、私にはちょっと足りなくて。

カットを入れて、わたしはカメラを止める。彼はルーティンが好きなんでしょう。今のフレーズ、ルーティンは退屈だ、って宣言していることになる。梗香ちゃんの本音は必要ないの。物語の筋を外れないで。わたしがはっきりと伝えると、女優は眉を釣り上げて苛立ちを隠さない。つまんないことをつまんないって言っただけ。私は本当のことしか言いたくない。そう強い口調で言い返す。京さんだって知ってるでしょう、そもそもこの彼のことだって…。

そもそも、この彼のことだって。

まだカメラは止まったままだ。私は女優と作家が言い合っている姿を眺めながら考える。私と彼は長い間、程よい距離の友達だった。そして、偶然みたいなハグをきっかけに距離を縮めた。同じ人と別の関係性になる。それは私にとって、同じ人と別の場所で会うことと似ているのではないだろうか。彼との設定を変えてみたい。私がやりたかったのは、それなのか。

沖縄って、食べ物美味しいんですか?彼が私に尋ねる。美味しいと思いますよ、住みたいくらい。私は答える。でも好みが分かれるかも…ソーメンチャンプルー食べたことあります?私が彼に尋ね返すと、こっちの沖縄料理屋で食べたことあるかなぁ…と彼は思い出すような表情をする。女優は料理の説明を始める。具体的な表現は得意なのだ。

わたしはカメラをふたたび回し始める。グラスの中のアイスコーヒーは三分の一くらいまで減っている。彼の眼鏡をかけた横顔を丁寧に撮っていく。このキャストのどこか影のある表情がいい。何かを隠し持っている。この先の展開でそれが明らかになるかもしれない。ならないかもしれない…。わたしの心に暗い喜びが満ちていく。カットを入れる。梗香ちゃん、沖縄の展開よかった。一回休憩入れようか。

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