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檸檬

わたしがいつからここにいるのかはわからない。キョウコが十五歳で、初めて恋をしたあたりだろうか。相手は塾の先生で、十歳年上で、彼女が中学校を卒業してから付き合い始めた。まだ子供だったから、淡い付き合いだった。春の夜、ドライブの帰りに夜景を見に行った。男と二人で宝石箱をひっくり返したような夜を見下ろした。その時初めて、彼女は心の中でシャッターを切った。網膜に焼き付けるように。この記憶を文章に落としこんで凍結したい。彼女の願いは強烈で、わたしの原型を作り上げた。

それから高校生のキョウコはいくつか恋をした。わたしは彼女をキャストとして舞台に立たせ、徐々に情景を撮るようになった。わたしが物語のベースを描く。台詞も即興で書く。演出も加える。そんなことを繰り返しているうちに、彼女の中でひとりの女優が生まれた。梗香だ。わがままで激しくて、官能的な美しいものだけを愛する女。わたしと女優は意外に仲がいい。梗香はわたしの作品を信頼してくれているのだ。

その代わりに、わたしとキョウコとの折り合いは今ひとつだ。誰かと出会ってからの展開が早すぎることが、彼女の心と体に強い負担をかけていることは知っている。申し訳ないと思う。でも、わたしが撮りたいのは冗長なロードムービーではない。キャストの心が強く揺れることが必要なのだ。静謐を長回しで撮るのは、出来事が終わってからの方がいい。

作品は毎回、独特の風合いが出るように創っていく。キャストと女優が一枚の絵になった時の印象を大事にしながら。物語にインパクトのあるエピソードを挟みたい時、わたしはキョウコに麻酔をかけて眠らせることもある。彼女の冷静なジャッジが演出を妨げることのないように。わたしと梗香のふたりには良心がないから、作品を円滑に作りやすいのだ。

ただ、現実を生きているのはキョウコだけで、実際の痛覚はすべて彼女が請け負っている。彼女は一つの恋愛が終わるとクタクタの抜けがらになる。それはそうだろう。わたしの撮影クルー全員と、女優がひとりの体の中に入っているのだ。渦中は凄まじいエネルギーに翻弄される。私が私でいられない。彼女はそう言ってたまに泣く。

でも、わたしはキョウコに約束している。必ずいい作品にするし、後悔させないことを。恋が終わると、わたしは地下へ潜り、撮り溜めた映像を繋いで文章に落とし込む。金の絹糸で絨毯を織るように。出来上がった物語は、美しく包装して彼女へ献上する。身体の全てを使って物語を描いてくれたことに感謝して。

物語を静かに読み終えた彼女は小さく呟く。
京さん、ビタースイートですね。

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