桔梗
夕暮れ時、本を読みながら白ワインを飲んでいた。白地に虹色の挿絵が描かれていて、好きな装丁の本だ。最後に読んだのはいつだっただろう。どんな話なのかすっかり忘れていて、久しぶりに本棚から手に取った。読み進めていくと、これは深い喪失の物語だと思い出した。じわじわと自分の力が奪われていくほどの、リアルなやりきれなさを感じる。主人公がフィンランド行きを決めたところで、ぱたりと本を閉じた。辛すぎて読み進められない。
蜂蜜を垂らしたブルーチーズを一切れ口に入れる。ビリ、と舌が痺れた。花瓶に生けた紫色の桔梗をぼんやり眺めた。捩じ切れそうなほどの寂しさが心を覆っていく。仰向けのまま、海の底にゆっくり一人で沈んでいくようだ。こんなことはしたくない、としばらく迷った。でも彼に連絡した。急だけど少しだけ顔が見たいと。今日は予定があって…とお詫びとともに返事が来た。私はすっかり絶望してしまった。この寂しさは命に関わるレベルだ…。しばらく窓の外を見ながら放心していた。立ち上がって冷蔵庫から白ワインを出し、立ったままグラスに注ぎ足した。夕暮れに身投げしたいような気持ちで。
女優は不機嫌だ。こんなに寂しい展開は嫌だという。彼の心を根こそぎ奪いたいという。梗香は本当に我儘で、平気で人の心を弄んだかと思えば、身も世もないくらい寂しがる。私はいつも、恋愛が始まると感情を彼女に乗っ取られてしまう。しかも、この人は別に彼のことが好きなわけじゃないのだ。ただ自分のものにしたいだけ。天女みたいにたおやかで優しいかと思えば、修羅のように激しく怒ったりする。感情のエネルギーが強すぎて、私の個体では持ち堪えられないほどだ。私は凪いでいたいし、冷静でありたい。彼のことを大事にしながらゆっくり関係を育んでいきたい。でも私の声はあまりにも小さい…。
梗香ちゃん、窓の外を眺めてたときの焦燥した横顔、すごく良かったよ。カメラを止めた監督が女優に声をかける。脚本的にも今日は会えない、が正解だよ。空は綺麗に澄んだ夕方で、二人は透明にすれ違う。どうしようもない寂しさに沖まで流される女…。カメラは桔梗と女優を遠く捉える。白いリネンのシャツの腕を捲って頬杖をつく姿。梗香の不機嫌は少しだけ和らいでいる。
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