ゲーム『ウマ娘 プリティーダービー』小ネタ伏線の考察・解説 ~ウオッカ編~
注意
この記事はゲーム『ウマ娘 プリティーダービー』のウオッカに関するキャラクターストーリーおよび育成シナリオのネタバレが含まれます。
「本編をもっと楽しみたい!」という方向けに、作中のセリフや演出の元ネタと思しき小話を、競馬に関するネタから細かすぎて伝わらないネタ、シナリオ構築上の演出まで渡って解説していきます。
ネタバレ絶対許さない派の方は本記事をご覧にならないでください。
キャラクターストーリー
まずウオッカの競走馬データはコチラ(netkeiba さんより)です。
ウオッカはアニメ1期から主人公のチームメイトとして登場しており、ゲームにも最初から配布キャラクターとして実装されています。
初期キャラクターだけあってシナリオはシンプルで爽やか。男の子の反抗期的な描かれ方をしています。だいたい中学2年生くらいの。
史実の基本情報として押さえておきたいのは、日本ダービー(東京優駿)が特別なレースであること。
日本ダービーは1932年にイギリスのダービーステークスを手本として3歳馬限定の競走として創設されました。中央競馬会(JRA)設立前から運営されている歴史の長い競走であり、「すべてのホースマンが憧れる最高の栄誉の1つ」とも言われています。憧れの象徴としてのエピソードでは、後に創作と判明しつつ未だに語られるものとして、イギリス元首相のチャーチルが「ダービー馬のオーナーになることは一国の宰相になることより難しい」と語ったと言われています。
ウオッカの馬主である谷水オーナーは、それまでにタニノギムレットで日本ダービーを制しており、その血を継ぐダービー馬を育てることを目標として生産を行いました。その中で生まれたのがウオッカです。
名前は父親タニノギムレットからお酒にまつわるものを案とし「割らずにストレートの方が度数が高い(アルコールが強い)」ことから、ギムレットより強くなってほしいとの願いを込めて冠名「タニノ」をあえて付けず「ウオッカ」となったと言われています。
時代背景
ウオッカの生まれた2004年当時、競走馬としての牝馬の評価は牡馬より低く扱われていました。それまで牡馬混合G1レースで活躍した牝馬と言うと、ダイイチルビー、ノースフライト、エアグルーヴ、シーキングザパール、ファインモーションなど。短距離競走ではさらに評価がされにくかったため、牡馬・牝馬の扱いを論じるならばエアグルーヴとファインモーションに着目するのがよいでしょう。
いずれも牝馬限定レースで圧倒的な勝ち方をし、混合レースで良い勝負をする、という形。牝馬・牡馬の差という意味では大きな開きがありました。
それが2005年の宝塚記念でスイープトウショウがハーツクライ(2005年有馬記念にて国内で唯一ディープインパクトに勝利した馬)を下して優勝した辺りから、少しずつ変わってきました。ウオッカとそのライバルであるダイワスカーレットは、そうした牝馬の評価向上に拍車をかけた存在と言えるでしょう。
ウマ娘のゲームにおけるメインシナリオ第2部では、そうした牝馬の時代に焦点を当てています。日本競馬の2000年古馬と2005~2006年は特異点なので、この期間をどう扱うのか難しいだろうと思いつつ楽しみなのですが……
閑話休題してウオッカのお話にまいりましょう!
レースで集団に沈むことを厭うウオッカ。華々しい成績を収めたウオッカですが、着外に沈むときはそうした負け方をしていました。外へ追い出したり先団につけたりして前が見えるも、最後に伸びを欠いて沈んでいく……といった展開です。
「カッコいい」
競走馬ウオッカの鹿毛の馬体がカッコいいのは写真検索してもらえばご理解いただけるかと思いますが、ウオッカのカッコいいエピソードには馬同士のものがあります。
競走生活の最後をドバイワールドカップと定め、その前哨戦から遠征へ出たウオッカ。そこで一緒に遠征を行った後輩牝馬のレッドディザイアの逸話です。
レッドディザイアは、2009年の牝馬三冠をブエナビスタと競い、秋華賞を勝った強豪です。
2010年早春から行ったドバイへの遠征でウオッカと親しくなり、その後ウオッカが引退・アイルランドで繁殖入りすることとなり競走馬の馬房を離れると、寂しがって元気を無くしたそうです。
それでは困るということで策を講じ、効果があったのがレッドディザイアの馬房から見える位置にウオッカの等身大写真を貼るというものでした。
推しのポスターを見てテンションを上げるという文化がお馬さんにもあるのでしょうか。
反抗期
次に紹介するのは何かしら元ネタのあるものではありません。ウマ娘シナリオにおける思春期の心理的発達に対する解像度の高さです。これは特に初期に実装されたウマ娘のシナリオに顕著なのですが、思春期の心理的発達あるあるが非常に高い解像度で描かれています。
思春期と青年期の境界は、アイデンティティを確立(再獲得)しているかどうかであると、2020年段階では多くの心理学分野で定義されています。脳の構造や働きがより詳細に分析された際には新たな定義が立ち位置を取って代わるでしょうが、教育現場で臨床的に観測できる現象に変化は無いでしょう。
ざっくり説明すると、幼年期の経験を通して自分とはどんな存在なのかという理解が少年少女の中に構築されます。それが思春期になり触れる世界が広がる(世界へ触れる深度が深くなる)と、アイデンティティの崩壊(狭義)を起こします。このストレスで周囲へ反発してしまう様子を指して「反抗期」と呼びます。この中で自分とは何かを再発見し受け入れることでアイデンティティを確立(再獲得)していきます。
ウマ娘のゲームシナリオにおけるウオッカは、自主性を認められることによってアイデンティティの確立の一歩を築いています。これにより1人の大人としての振る舞いを自然と身に着けており、それが周囲の大人(まだ彼女を子どもだと思っている人)にとっては素直さに映っているのです。
ここで紹介した「アイデンティティの崩壊」や「アイデンティティの確立」などは、近年になって複数の分野で別の意味あるいは包括的な用途で使われている用語ですので、使用する際に注意が必要です。違う使い方をされているのを見ましたら、「ああ、この人はあの人と所属流派が違うんだな」くらいに思ってください。
読者の方が求めるようでしたらできる範囲でいくらか解説をしますが、確実にウマ娘の記事でする話ではありませんので今回は割愛します。
鼻血
ウマ娘ウオッカの幼さの象徴としてコメディタッチで描かれる鼻血の描写ですが、こちら史実に準拠したネタとなっています。アニメ2期で描かれたマチカネタンホイザの逸話も有名になりましたが、ウオッカも同様の逸話があります。
2009年ジャパンカップの競走中に鼻出血を発症しており、痼疾馬の出走制限規定により施行日から1ヶ月間の出走停止処分が下されています。これにより、2009年の有馬記念ではファン投票で史上初めて3年連続1位となったのですが、出走が叶いませんでした。
また2010年2月からのドバイ遠征で、ドバイワールドカップの前哨戦として出走したマクトゥーム・チャレンジ・ラウンド3でも競走中に鼻出血を発症。これによりドバイ遠征を中止し、引退となりました。
競走馬ウオッカの引退の節目となった鼻出血を元にしたエピソードを、キャラクターストーリーのうち育成前に見ることのできる4話最終シーンで挟んだのも、意図的な演出ではないでしょうか。
育成シナリオ ~ジュニア級~
ウオッカ登場
自己紹介イベントで回顧されている思い出のダービー。父親の存在が強調されていること、サイドバイサイドで肩をぶつけるという最終直線の表現から、元ネタの父タニノギムレットが制した2002年日本ダービー(JRA公式レースはコチラ)がモデルと考えられます。
このダービーはラスト100mで8頭がほぼ横並びという激戦で、最後の最後に外から抜けたタニノギムレットが勝利しますが、2馬身以内に5頭がひしめく結果となっています。
本記事執筆時点でウマ娘化している出走馬は、タニノギムレット、シンボリクリスエス、ノーリーズンの3頭。
ウオッカと同じく最初期に実装されたウマ娘の中から、憧れの存在としてナリタブライアンが割り当てられていますが、タニノギムレット実装後はサポートカードやイベントストーリーでそのポジションから降りつつあります。
これは初期実装ウマ娘の中でブライアンズタイム系の代表であったためでしょう。実馬のウオッカにとってナリタブライアンは伯父に当たります。
また、素直じゃない表現ですがライバルとしてダイワスカーレットが指名されています。両馬は5度の直接対決をし、ウオッカ2勝、ダイワスカーレット2勝、ダイワスカーレット先着1回という内容です。
デビュー戦にむけて
デビュー戦で他のウマ娘に言及するのは実は珍しいことです。
これは実馬のウオッカがデビュー戦を勝利したことと、それまでの調教でG1勝利馬の先輩と併せ馬をしたり、オープンクラスの馬でないとウオッカの相手が務まらなかったりしたことが言外に込められていると思われます。
ちなみにウオッカの調教を担当していた角居厩舎では、前年まで預かっていた日本馬初のアメリカG1勝利馬を引き合いに出し「シーザリオ級だ」と期待していたと言います。
デビュー戦後、次の目標レースを決定します。育成シナリオでは阪神ジュベナイルフィリーズを選択。史実では黄菊賞を挟んでいますが、その後にジュニア級G1である阪神JFへ出走しました。
ブライアンズタイム
日本へ種牡馬として輸入されたサラブレットで、サンデーサイレンス、トニービンと並び平成前半の三大種牡馬に数えられます。
ウマ娘化している産駒にナリタブライアン、マヤノトップガン、ダンツフレーム、ノーリーズン、タニノギムレット、フリオーソなどがいる。母父としてはここにエスポワールシチーと、アニメ3期で「ディヴィニティー」としてサトノダイヤモンドを破り皐月賞を獲ったディーマジェスティが加わる。
阪神ジュベナイルフィリーズ
ウオッカのシナリオでは登場しませんが、史実のこのレースでは1番人気でアストンマーチャンが出走しています。マーチャンの結果は2着。ウオッカは4番人気で出走し、レコード勝ちしました。
阪神ジュベナイルフィリーズは、1949年に阪神3歳ステークスとして設立。1991年に牝馬レースを整備する一環で、3歳(現2歳)牝馬のチャンピオン決定戦として再設定され、競走名を阪神3歳牝馬ステークスへ変更しました。これが2001年の馬齢表記改定に合わせて改称され阪神ジュベナイルフィリーズとなりました。
したがって1990年までは牡馬も出走しており、ウマ娘化した牡馬では1986年のゴールドシチーなどがいます。
またこのレース後イベントでは、クラシックレースの2路線が示されています。
クラシックレース
日本競馬におけるクラシックレースとは、イギリス競馬のBritish Classic Race とされる5競走をモデルとした、桜花賞、皐月賞、優駿牝馬(オークス)、東京優駿(日本ダービー)、菊花賞から始まっています。いずれも3歳に限る競走です。
菊花賞は、モデルとしたセントレジャーと同様、当初は牡馬牝馬混合でした。しかし生物学的に牝馬よりも牡馬の方が競走能力が高かったため、勝利を目指す牝馬陣営は自然と菊花賞を避け、桜花賞とオークスの2冠で争うようになっていきました。
これが牡馬クラシック路線と牝馬クラシック(ウマ娘におけるティアラ)路線の最初の姿です。
1970年に3歳牝馬限定のビクトリアカップ(京都芝2400m)が創設され、1976年に大の競馬好きで知られるイギリスのエリザベス女王が来日した記念にエリザベス女王杯(京都芝2400m)が創設。役割を引き継いでビクトリアカップは廃止されました。
1996年の牝馬競走体系見直しにより、エリザベス女王杯は3歳以上牝馬に競走条件を変更。3歳限定の牝馬クラシック最終戦として新たに秋華賞(京都芝2000m)が設立されました。
イギリス競馬のクラシックレースとその普及に貢献した貴族「ダービー卿」にちなんで、世界的にクラシック距離(ディスタンス)と言うと2400mを指します。
こういった歴史から、フランスの凱旋門賞や各国のダービー、オークスなど2400mのレースは特別な扱いを受けることが多いのです。
育成シナリオ ~クラシック級~
開戦のクロスロード
イベント中に「チューリップ賞は『ティアラ路線』の入口」という表現があります。
競馬で前哨戦あるいはステップレースと表される競走は、着順が上位であると後のG1級競走の優先出走権を得られる競走です。チューリップ賞は桜花賞の前哨戦で、桜花賞で上位に食い込むとオークスへの優先出走権も得られます。
このイベント中に描かれるダイワスカーレットとの煽り合いで、ウオッカが自分の走り方をジャックナイフに例えるシーンが飛び出します。
これは二重の意味が込められています。
ひとつはイベント中に言われている通り、走り方の特徴を表現したもの。競馬では上がり3ハロン(600m)をラストスパート距離とし、そのタイムでその馬の最高速度を計ります。しかしその中でも、600mをかけてロングスパートをするタイプと、最後に再加速し短時間ながらより速い最高速度を出すタイプがいます。そして後者の走りを指し「切れ味がある」と表現します。これを強調してジャックナイフと表したのでしょう。
ちなみに前者の代表はメジロマックイーンやナリタトップロード、ゴールドシップなど。後者の代表はキングヘイローやでしょうか。どっちもいけてレース展開に合わせて調整できるタイプや、何かよく分からんが強いのや、ツインターボタイプもいます。
しかしウオッカがバイク好きであるこれまでの描写を考慮すると、ふたつめの意味も出てきます。二輪車でジャックナイフと言うと、フロントブレーキを急激に掛けることでリヤタイヤを浮かせることを意味するのです。簡単に言うとウィリーの逆版ですね。前につんのめっている状態です。ちなみにこのジャックナイフの対義語はウイリーであり、前走の阪神JSのレース後イベント名が『精いっぱいのウイリー』であることも、この意味を持たせる伏線と考えられます。
この意味のジャックナイフはバイクレースのピットイン時によく見られ、その様が一部の(やや荒っぽい)バイク乗りに流行した時期もあったのですが、2000年以降は前輪がロックされたことによる事故シーンで使用されることが多くなりました。
この2つを重ねており、ウオッカの強さと危うさを両方とも盛り込んだシーンであると言えるでしょう。
余談ですが、イベントタイトルと『クロスロード』のタイトルが重なるアニメ映画『名探偵コナン 迷宮の十字路』は、ウオッカの生まれる直前のコナン映画のタイトルとなっています。
チューリップ賞
史実のウオッカはチューリップ賞前にエルフィンステークスを勝利。
チューリップ賞ではダイワスカーレットと競り合い勝利。3着以下を突き放していました。
レース後にはスカーレットがウオッカの走りを認める発言をしています。
この際のトレーナーの発言はG1レースを中心としていますが、背伸びをして経験を積んだ旨は、実馬の積んだレース経験豊富な先輩競走馬と競り合った調教を汲んだものでしょう。
桜花賞
史実の桜花賞では、1番人気のウオッカは2着、2番人気のアストンマーチャンが7着、3番人気のダイワスカーレットが1着でした。この人気上位3頭がオッズ1桁台で、4番人気以下は30倍台まで飛躍しており、この3頭の争いになるだろうと目されていました。
桜花賞後のイベントでウオッカが次走をどうするか迷っているシーンが描かれますが、これは史実のウオッカ陣営が「桜花賞に勝ったらダービーへ行く」と掲げており、その桜花賞に負けてしまったことでダービーへ行くべきかオークスでダイワスカーレットにリベンジするか迷ってしまったエピソードにちなんでいます。
ダービー牝馬
ウオッカのダービー挑戦よりも前に日本ダービーを優勝した牝馬は2頭いました。1937年のヒサトモ、1943年のクリフジです。桜花賞の元となる「中山四歳牝馬特別」が設立されたのが1939年であり、これはヒサトモの時代には存在せず、クリフジは出走していません。
したがって、桜花賞に出走して日本ダービーに勝った馬はそれまで出ていません。皐月賞からダービーという牡馬クラシック戦線へ殴り込む牝馬も、2024年のレガレイラのみでいずれも勝ててはいません。
日本ダービー
ウオッカの育成シナリオはここまでで、競走の体系やレースの格についての説明や印象付けが重ね重ね行われてきました。これは、牡馬も牝馬も関係なく少女として描かれるウマ娘の世界で、牝馬によるダービー挑戦の重さを可能な限り伝えようとした結果と考えられます。
馬の競走能力は雌より雄の方が優れているため、雄、すなわち牡馬を主な対象とするクラシック戦線へ牝馬が挑戦するのは、人間で例えるなら男性メインのプロスポーツチームに女性選手が参入するようなもので、それがダービー制覇などした日には、女性選手がプロ野球のホームラン王を獲ったり、サッカーJ1の得点王を獲ったりするようなものなのです。
ダービー出走前のイベントでは、後に漫画『シンデレラグレイ』でシンボリルドルフ会長が放つセリフへのアンサーのようなセリフが。
それまでの常識を相手にするウマ娘に向けられる常句なのかもしれませんね。
史実では、ウオッカは単勝10.5倍の3番人気で出走。上がり最速の末脚を発揮し勝利しました。このレースに出走してウマ娘化している競走馬は、5着に敗れるも上がりタイムで2番手につけたドリームジャーニーがいます。
またこの勝利は歴史に残るような記録づくめでした。
角居調教師、騎乗した四位ジョッキーともに初のダービー制覇であり、牝馬としては64年ぶり3頭めの勝利、オークス開設以降では初の勝利でした。当然、父娘制覇は史上初です。勝利後イベントには父子制覇を果たしたペアが祝福するシーンもありますね。
またこの勝利によって、生産牧場であるカントリー牧場は、民間経営の小規模運営の形態をとっているにもかかわらず、社台ファームやノーザンファームに並ぶダービー馬輩出数4頭という3位タイに躍り出ました。
ダービーのレース後イベントでは、ウオッカが勝手に海外挑戦を宣言するシーンがあります。
これはダービー前にフランス凱旋門賞への予備登録を済ませており、これを陣営として正式決定したことが元となっています。
クラシック級の野良レース
育成シナリオ中に特にイベントは用意されていませんが、G1レースの出走が可能です。
安田記念はウオッカが4歳、5歳で出走したレースで、クラシック級(実馬の3歳時に相当)の宝塚記念は11年ぶりの3歳牝馬として出走しました。
この宝塚記念は、凱旋門賞への挑戦にあたり古馬とのレース経験を積む目的で出走しており、1番人気を背負ったものの結果は8着でした。
晴れのちスリッピー
海外遠征へ旅立つその日に足をくじいて遠征を中止することになったウオッカ。
史実でも8月に蹄球炎を発症し、幸い軽症で数日の休養で済んだものの、遠征は取りやめとなりました。
「もしウオッカが凱旋門賞へ挑戦していたら」はコアな競馬ファンが稀に口にするタラレバです。そんな「もしかしたら」に挑戦してみるのも楽しいですよね。
また、このイベントの後半でダイワスカーレットが唐突気味に言う「海外から万が一戻ってこなかったら」は、ウオッカの引退時を汲んだセリフと思われます。
ウオッカは6歳時にドバイへ遠征し、その後引退。ドバイから日本へは帰らずアイルランドで繁殖牝馬として過ごすことになったのでした。
さらに、ウオッカのダービーを「ヒマだったからTVで見た」とダイワスカーレットが言うシーンがあります。
これは、史実でダービー前週のオークスに出走予定だったダイワスカーレットが、体調不良で発熱してしまい休養のために放牧へ出されたことを汲んだ展開となっています。寮の自室……だとウオッカもその数週の様子を知っているはずなので、実家にでも戻って休んでいたのでしょうか。
秋華賞
前日譚で描かれているダイワスカーレットの様子・性格は、主戦騎手だった安藤勝己さんが「どんなときも一生懸命」と表現する実馬の性格を忠実に再現したもの。
マイルなど短いレースでは好位から先行するものの、距離が延びると前へ出過ぎて逃げる形になる脚質傾向もそのためと語られています。
ちなみに史実では、ウオッカは1番人気の3着、ダイワスカーレットが2番人気の1着となっています。
またここまでで同期のウマ娘化した競走馬では、アストンマーチャンがスプリンターズステークスを勝利。同期内で唯一の古馬相手のG1勝利を果たしています。
秋華賞レース後の言い合いの中で、ダイワスカーレットが有馬記念について触れます。
この有馬記念は兄ダイワメジャーとの兄妹対決でもあり、G1級優勝兄弟姉妹による史上初のG1対決となっていました。
また次走レースに関して、エリザベス女王杯の名が挙がっています。
史実では、ウオッカは出走予定だったものの当日朝に跛行(歩様がおかしい)が確認されたため出走取消となりました。
レース内容は、ダイワスカーレットの他スイープトウショウ、デアリングハートが出走し、ダイワスカーレットが勝利しました。
エリザベス女王杯
史実では出走取消となったウオッカが出走できた場合として、クラシック級のエリザベス女王杯にはイベントが用意されています。
史実でエリザベス女王杯を回避したウオッカは、軽症であったため回復後にジャパンカップへ出走。2番人気の4着となりました。
有馬記念
史実の有馬記念では、ウオッカは牝馬としてエアグルーヴ、ヒシアマゾンに続いて3頭め、3歳牝馬としては初のファン投票1位に選出されました。レースは3番人気で出走したものの11着に沈んでいます。
長距離適性の壁がありますが、この有馬記念に勝利するとレース後のイベントで「今年の余熱が覚めない」というセリフが飛び出します。
「余熱」は自分をバイクに例えての、走り切った後に残っているエンジンの熱のこと。しかし「冷める」でなく「覚める」を使っているのは、ダービーを獲るという夢から覚めて新たな自分の目標を得なければいけないという想いの現われでしょう。珍しく文学的な表現をするじゃない!
敗北した場合のイベント名『迷走の始まり』は、次の6月まで続くウオッカの連敗の史実を示唆したものと思われます。
育成シナリオ ~シニア級~
バレンタイン
ウオッカの同性からのモテモテ具合が描かれています。キャラクターストーリーの項でも触れたレッドディザイアとの逸話が反映されているようですね。
またコメディタッチに鼻血ネタも重ねて回収されています。
ヴィクトリアマイル
史実では4歳時と5歳時の2度、出走しています。
4歳時はドバイ遠征でG1ドバイ・デューティーフリーで4着に敗れ、日本へ戻ってきての初戦がヴィクトリアマイルでした。1番人気で出走し結果は3/4馬身差の2着。これでダービー以降丸1年勝利できませんでした。
5歳時はまたドバイ遠征後のレースとして出走。カワカミプリンセスらが出走する中で1番人気に選出され、レースレコードで勝利しました。この勝利により、メジロドーベルの持つ牝馬の最多G1級勝利数に並びました。またエアグルーヴを上回り、牝馬の最高獲得賞金額を更新しました。2着に7馬身差をつける圧勝に、一部観客からは「ダービー馬が牝馬レースに出るのはズルだよ」との声も上がったとか。
この5歳時のヴィクトリアマイル出走時、ライバルであったダイワスカーレットは既に競走を引退しており、スカーレット陣営から「ダイワスカーレットのいない牝馬レースで負けるんじゃないぞ」とエールを送られていたそうです。
シナリオ中の出走前イベントでは、レース設立の元となった元イギリス女王ヴィクトリアではなく、勝利の女神としてのヴィクトリアが言及されています。
もしかしたらチャンピオンズミーティングのウィニングライブ曲『Ms. Victoria』は最初期から想定されていたのかもしれませんね。
安田記念
ヴィクトリアマイルと同様、ウオッカは安田記念も4歳と5歳で2度出走しています。
ダービー優勝馬による安田記念出走は1989年のサクラチヨノオー以来19年ぶり2頭めでした。なおサクラチヨノオーは16着に敗れています。
4歳時はドリームジャーニーらも走る中、2番人気で優勝。G1に定められて以降、牝馬による安田記念勝利は1991年のダイイチルビー、1994年ノースフライトに続く3頭めでした。
5歳時は1番人気で出走し勝利。ヤマニンゼファー以来2頭め、牝馬では初の安田記念連覇を果たし、牝馬のG1級勝利数記録を更新しました。
いずれの年もその後の宝塚記念にはファン投票1位に選出されましたが、出走せず放牧となりました。
安田記念レース後イベントにて、「この場所(東京レース場)に愛されたウマ娘」とのセリフがあります。
これは東京開催のG1を6勝(アーモンドアイに並んで最多タイ)していることや、東京でのレース後に栗東へ帰ろうとすると渋るといった関係者の談が元ネタと考えられます。
また、安田記念を連覇すると隠しイベントが発生します。前述の通り牝馬で初の連覇を汲んだものでしょう。
さらにもう1つ、☆2ウオッカの固有スキル『カッティング×DRIVE!』は演出・効果とも5歳時の2009年安田記念をモデルにしていると推測できます。
JRA公式動画を見ていただければ分かりやすいかと思います。先行馬が密集して進路がふさがっている中、200mを切ったところで半ば強引に馬と馬の間をすり抜けて突破し、先頭を捉えています。
ちなみにスキル名『カッティング×DRIVE!』は、サッカー、ラグビー、アメリカンフットボールなどの大人数フィールド球技で使われる用語が元になっていると思われます。カット(スキルでは動名詞の形になっています)は、ボールを持っている選手が相手ディフェンス選手らを躱すためのステップなど体捌きを表し、ドライブは片方のチームが攻撃し続ける時間を表す用語です。
天皇賞(秋)
ヴィクトリアマイル、安田記念と同様、ウオッカは天皇賞(秋)も4歳と5歳の2度出ています。
4歳時の2008年は、出走する17頭の全員が重賞馬である中、ウオッカは1番人気を背負いました。ドリームジャーニーも出走していますが、このレースはダイワスカーレットとのデッドヒートが伝説的に語り継がれています。結果は長い写真判定を経てウオッカの2cmハナ差勝ち。スペシャルウィークの記録を破るレースレコードでした。またウオッカ・ダイワスカーレットによる天皇賞(秋)1・2着は、1958年以来50年ぶりでした。
5歳時の2009年は1番人気に推されるも3着でした。
育成シナリオでは、伝説的に語られる2008年をモデルにしています。
2008年の史実と育成シナリオで明確に異なる点は、バ場で勝利を讃えられている点です。史実では写真判定に時間を要するため、ウィニングランなどは行わずに退場しています。
クリスマス
育成シナリオが始まってからずっと「相棒」であるウオッカとトレーナー。ハードボイルドなバディもの映画のテイストで描かれていますが、もしかしたら谷水オーナーと角居調教師の関係が混ぜ込まれているかもしれません。
両氏は話し合ってウオッカの進路を決めていたとのことですが、ローテーションや騎手の乗り替わり、引退など重大局面では、お2人とも同時に同様のことを考えていたそうです。そのシンクロっぷりは谷水オーナーが「一卵性双生児のようだ」と表すほどだったとか。
育成シナリオ ~汎用イベント~
ダンスレッスン
ダンスレッスンのイベントでは、ウオッカがテイエムオペラオーへの憧れを口にします。
これは史実のG1級勝利数が、2者とも7勝であるところからの選出であると思われます。
やる気マイナスイベントの『礼儀は大事なんだよっ!』でも同様にテイエムオペラオーへの言及がなされています。
挑め、”宿命”
カワカミプリンセスと共演。これは2009年ヴィクトリアマイルで対戦している縁からと思われます。実馬ではカワカミプリンセスは1歳先輩です。
河川敷でガチバトル!
ウオッカがトウカイテイオーと河川敷で水切りをするイベント。トウカイテイオーとはアニメ1~3期で同じチーム”スピカ”に所属する仲です。
恐らく製作陣の意図しない偶然の一致だろうと筆者は思うのですが、ウオッカが日本ダービーで歴史的な勝利を果たした2007年は、アメリカ合衆国のラッセル・バイヤース選手が51段の水切りの世界記録を樹立した年でもあります。
育成シナリオ ~エンディング~
目標レースの最後、天皇賞(秋)の後。史実ではジャパンカップへ4歳時、5歳時とも出走しますが、育成シナリオでは省略されています。
5歳時、2009年のジャパンカップではこれを制し、シンボリルドルフ、テイエムオペラオー、ディープインパクトに並ぶ当時の日本馬最多タイのG1級7勝を記録しました。
グッドエンドでは、これまで「海外」と表されていた遠征先が「欧州」と明言されます。これは「ダービー後の借り」といった表現からも、凱旋門賞挑戦の道が示唆されたものと考えられます。
ゲームのサービス開始時は、この凱旋門賞が示唆されているイベントでレース名が明言されない状況から、海外レースの実装はされないものとプレイヤー間で噂されました。それゆえに凱旋門賞へ挑む育成シナリオが発表されたときの驚きも大きかったのです。
ウオッカの育成シナリオは、空港で遠征(の下見)に出るところを最終シーンにして幕を閉じます。
これは史実でドバイへの遠征を最終レースとし、日本へ戻らずに引退したことを汲んだ表現でしょう。
こうしたところで、ウオッカに関わるシナリオの小ネタ解説を終了いたします。
記録づくめの名馬であるため、小ネタを散りばめるよりもレースの格や仕組みをプレイヤーに伝えるチュートリアル的な役割の濃いシナリオでした。ここも、ゲーム操作のチュートリアルを任されたダイワスカーレットと対になっているところがニクい構造ですね。
これを読んで、より楽しく本編をプレイできる方が増えたのなら幸いです。
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