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幼少期の終わりまで

 面と向かって話すと、信じてもらえないどころか以降の信用を失いかねないな、と感じて公言してこなかった体験談を、この際残してしまおうと考え、書くことにしました。幼少期が終わるまでのお話です。

最も古い記憶

 私の最も古い記憶は、生まれる前、母親の胎内にいた頃の記憶です。
 全部で4日分ほどあり、ほとんどは「目が覚めたらぼんやり明るい中を漂っていて、何やら語り掛ける声のようなものが聞こえて、ゆっくりと眠りに落ちる」というものですが、1度だけ鮮明な景色が見えたことがありました。
 いつも通りぼんやりと明るい中、突如視界が開けるようにして、鮮やかな青と緑が広がりました。驚きと好奇心でそちらを見ようと身をよじると、真っ青な空、白い雲、緑の草木、藍色の花、褐色の道、それらを映す水面。生まれて、はいないけど、意思を持って初めて見た美しいものに心奪われたのを覚えています。
 12歳くらいでしょうか。兄弟の末も大きくなり家族での外出が可能になった頃、一家で訪れた忍野八海菖蒲池で、この記憶がフラッシュバックしました。予知夢じみた夢もまま見るので、この時もそのひとつかとも思ったのですが、記憶の景色の目線が当時の私の身長と明確に異なっていたので別の可能性を探したのです。
「ここ、前に来たことある?」
池一面の花菖蒲に盛り上がりつつあった兄弟から離れ、耳打ちのように聞いてみるも答えはNO。一度も来ていない、と。だが、ふと母が思い出したようにポツリ。
「アナタがまだお腹の中にいた頃、1度だけ来たことがあるわね。お父さんが連れて来てくれて。それが綺麗だったから、アナタ達にも見せようと思って今日は来たのだけど」
先刻フラッシュバックした記憶の中の、ぼんやりとした明るさが手の平に透かした太陽光と似た色合いだったことと繋がりました。しかしそれでも信じられないことでした。まず、なんで母の目に見えた景色が見えていたのか。それに見えた景色の高さは母の目線より低く、むしろ腹の中の胎児の目線程度だったことも不思議でした。
 ともかく謎を謎のままにしておけない性質の私は、帰宅後に母子手帳をねだり該当の記述を探しました。菖蒲の花の見頃と、自身の誕生日から逆算した日付とを結び合わせ、その日を見付けました。
 菖蒲の花を見た直後の検診で、胎児――後の私――が逆子になっていたことが判明。
 あの日、花を求めて身をよじった結果なのか、はたまた何の関係もない偶然なのか分かりませんが、そんなことがありましたとさ。

初めのイベント

 胎児の頃の謎記憶を除き、記憶にある初めてのイベントは誕生の瞬間です。
 例のぼんやりと明るい空間の中、上半身方面から圧迫され、足元からずるずると引き込まれていく感覚。皺が寄り、波打つように押し出されていく2分弱ほどの記憶があります。
 首もとまで沈んだ産道途中で意識が途切れるのですが、何故かこの世のやるせなさを悟っていて、全力で生まれたくなかったのを覚えています。
 後から記録を読んだところ、意識が途切れたのは臍帯が首に巻き付いていて失神していたとのこと。なおそのまま産後無呼吸状態が1分あまり続き、生まれながらに自殺するところだったらしく、今の私は「0歳児の頃のが度胸あるやんけ!」と笑っているのでした。

トラウマ

 次に明確な記憶は、(後からの調査によると)生後2ヶ月頃。祖母に抱かれ散歩中、神社の境内の池へ放り込まれたことです。
 秋の頃、木漏れ日を受けつつ水の匂いを感じていると、唐突に自分の身長の3倍程の高さから水面にダイブ。ビックリしつつやや懐かしい浮遊感を甘受しながら、右へ左へ泳ぐ鯉に手を伸ばす――なんて悠長なことをしている間に水を飲んで窒息し意識を失いました。
 水深30~160cmの広い池を流される私に向けて、祖母が必死に泳ぎながら捕まえ、岸に揚げたとのことですが、これ以来、身長の2倍以上の高さから水面を見下ろすのが苦手です。水泳は得意な方で海も川も湖も好き(体質により、体調その他によって水に浸かれるか否かはまちまち)だし、高い所も、それはそれで好きです。木登り、山登り、展望台とか大好きです。けれども組み合わさるとダメなんです。何かこう、吸い込まれそうになるんですね。

怪獣

 次の明確な記憶は生後6ヶ月頃。家の窓際で日向ぼっこをしながらTVで放送されていたガメラの映画を見るという15分程の記憶です。緊迫したシーンで釘付けにされつつ、気が緩んだ際に辺りを見回しては手足をジタジタさせていました。途中でそれに気付いた母が、私を抱きかかえながらTVを消し、私を寝床へ横たえたのですが、私はガメラの続きが見たくて抗議しました。空腹の訴えと受け取られて哺乳瓶を差し出され、ムスッとしてTVを見詰めたところまで覚えています。
 これが生後6ヶ月の記憶だと分かったのはだいぶ後で、前述の菖蒲池の記憶の情報の確認時でした。まあ生前の記憶など大人にまともに取り扱われないので、他の古い記憶も披露して証拠にしてやろうとしたのです。
 この記憶で私のいた部屋は、私が少年期を過ごした実家ではありませんでした。記憶で見えた限りの家具を間取り図に起こすと、それが私の生後6ヶ月まで過ごした部屋だと分かったのです。未熟児で生まれて死にかけた問題児だったので、母の実家の近くでかかりつけ医にも近い場所に部屋を借りていたとのこと。加えて春分の頃から始めたという日向ぼっこが、この時期の決定に用いた証言でした。

理不尽

 私は幼少の頃から理屈っぽかったらしく、それを言葉にすることは叶わなかったのですが、理屈の通らないこと、理不尽なことへ嫌悪を示していたようでした。
 ここからはそんな理不尽イベントが続きます。

 まずは1歳になった後の冬。一升餅の風習にて。未熟児だったため発育が遅かった私は、誕生日の時点でこのイベントに耐えられる状態でないと判断され、少々の日を置いてこのイベント当日を迎えました。
 祖父母が餅を搗き、両親が私に餅を背負わせるためのリュック(のような物)を用意。そのウキウキした様子に私も興味を持っていたのですが、いざその時、何も悪い(と認識している)コトをしていないのに2kg近い重りを背負わされるとか何の処置ですか?と気分は急転直下のモグラ下がり。無理くり肩に通されたそれは案の定重く、掴まり立ちがやっと。おだてられて歩こうとするも1歩も進めず、後ろに転んで掴まっていた柱に後頭部を殴打。
 こんな目に遭わせるためにこの人たちはあんなニコニコと準備をしていたのか!と、童話に出てくる魔女がこんな身近にいたことが怖くなったのでした。以降、寝ている間に自分はこの人達に食べられるんじゃないかと思い、なかなか寝付けなくなったのでした。

 次は通っていた保育園の節分イベントです。3歳の頃でした。園に突如現れた鬼数体に追い回される追いかけっこイベントだったのですが、自分が理不尽に追われるその状況は微塵も楽しくなかったし、なんなら隙を突いて1体くらいは首を獲ろうと画策したのですが、そういった危険物のある個所は先生が塞いでおり「このピンチに武器庫を閉じるとか正気かアンタ!!」という思いを込めて泣きわめいていました。
 この時点で既に、強大な相手に対して策を練って逆転の手を考えるモノノフ思考が芽生えていたんですね。我がことながら生まれる時代を間違えている……

 次の理不尽は弟の誕生でした。誕生そのものはもう少し前だったのですが、下の兄弟の言動の責任を負わされるアレですね。弟がテクテクし始めた頃なので、私が4歳くらいでしょうか。
 この頃にはもう、世に理不尽が溢れていると知りつつあったので、せめて彼が生きやすいようにと思い始めていました。自分の人生に対する諦めが早過ぎない?キミ。

生きる道

 少し話が前後しますが、2歳の春ごろ。
 離乳食へ移ったのですが、食事の後数時間で全身がかゆくなり、蕁麻疹のような発疹と発熱。鼓動に合わせてジワリと打ち寄せるように痒みと発疹が湧いて出る様子は、自分の心臓を恨みすらしました。
 病院へ担ぎ込まれると食物アレルギーとのこと。検査の結果、引っ掛かる食物が多すぎて代替食品が確保できない状態で。医師は「即死の可能性を毎食抱えながら、成長とともに体質が改善する未来に懸ける」ことと「栄養の偏りによって成長が阻害されるのに耐えながら、代替食が開発されるのを待つ」ことの2択を提示したとのこと。
 まあその様子を眺めていた私は話の意味など分からず、自分を取って食うんじゃないかと思っていた両親が医者に怒られ(たような様子でい)たのを見て、世の力関係って複雑なんだな、みたいなことを思っていました。

エントロピーの増大

 5歳の秋。自宅がいわゆるクソ田舎だったので、家の庭というか、裏山というか、そんな土地がありました。その一角の草原で、夏に咲いていたタンポポが綿毛になっていました。
 夕暮れにはまだ少し時間がある、そろそろおやつが無いとお腹が鳴る頃合い。秋の風が綿毛を飛ばしていきます。数十の株から一斉に飛び去るその様を、全て目に収めたくて、私は乾いた草原に寝ころびました。
 暗さをひそめる青空に、吸い込まれるように舞い上がる綿毛たち。良い立地に植物が密集して花を咲かすのは道理。季節に沿ってその開花が揃うのは道理。開花から実を結ぶまでの期間が、同一種内で重なるのも道理。綿毛が軽く、風に力があるのだから舞い上がっていくのも道理。上空で、それらが散り散りに広がっていく様もまた、道理。
 全て理に適った現象だったのですが、その繋がり胸を打たれ、私は空が赤く染まるまでそれを眺めていたのでした。
 これが、ゆくゆくの私を科学の道へ進ませる原風景となったのでした。

殺意

 6歳になる少し前のこと。兄弟喧嘩をしました。喧嘩そのものはさして珍しくもなかったのですが、その日は少し違いました。ひとモメした後、弟にソレを譲って別の何かしらへ移ろうとした私に、彼が向けた目。それに、普段込められない意思を感じたのです。
 しかしそれを量れなかった私は、そのまま背を向けました。
 次の瞬間、彼は逆手に握ったハサミを私の後頭部に突き立てました。
 ただ殴られただけだと思った私ですが、衝撃のあった辺りを右手でさすると、ポロリ、と髪の間からハサミが落ち、ガシャンと床に転がります。呆気にとられ手を離すと手の平が真っ赤。家族の誰かの悲鳴が上がり、応急処置からの救急搬送。大事には至りませんでした。
 なるほど。これを殺意と呼ぶのだな、と、学んだのでした。

喪失感

 8歳のころ。近所に住んでいた友人が引っ越すことになりました。実際は、通常の引越しとは少し違ったのですが、そう聞かされていました。
 特に何の前触れも無く、彼女とは会えなくなりました。
「まあ、またいつか会えるだろ」
なんて考えていましたが、何ヶ月も経ち、気付きました。連絡先も、住んでいる場所も知らないのだから、会えるわけがないのです。何かがこぼれ落ちていくような感覚が胸にありました。

 そこに追い打ちをかけるような事態が起こりました。
 家族の一員(と私は思っていました)である飼い猫の1匹が亡くなりました。当時で13歳だったとのことで大往生なのですが、最期はなかなか凄惨だったようで、その日、私が学校から帰るともう、親が埋葬を済ませていました。
 死による離別。『2度と会うことの無い別れ』により、それこそポッカリと、胸の何かが無くなった、穴の開いたような感覚がありました。それを埋めるように涙が溢れ、しかしそのまま地面を濡らしました。

 この感覚を、この感情を喪失感と、そう呼ぶのだな。私が、自らの感情の名を初めて認識したのがこの時でした。

覚悟

 9歳になった頃。近所に外国人の一家が越してきました。登校時の案内役に、その地域の小学生で最年長だった私が選ばれました。そうして親交を持った秋の日、自宅で採れたサツマイモを使った大学芋を大量生産したので、お裾分けに持って行くことにしました。
 私と弟と妹の3人で向かいましたが、一家で外出中だったらしく家は留守。仕方無く帰ろうかと思っていると、匂いにつられたのか1匹の野犬がやってきました。意識は明らかに大学芋に注がれていますが、2つの眼はひしと我々3人を見詰めており、そこには生きるための殺気が宿っていました。
 妹に、歩いて逃げるよう指示を出し、弟と共に壁になります。じりじりと間合いを測りながら、妹が無事に家まで辿り着けるよう時間を取っていましたが、ついに犬が私に飛び掛かりました。
 私を行動不能にしてから食料を手に入れようとしたのでしょう。太っていれば大型犬だと胸を張れるくらいのサイズのその犬は、半身を逸らした私の左腿に噛みつきました。私は逸らした右手で芋の皿を弟に渡し、叫びました。
「走れ!走って帰れ!」
半べそながら駆け出した弟の、軽い足音を聞きながら、私は噛みついた犬の下あごを左手で押さえました。転んだ体勢で、私の脚から口を離させないようにしながら、空いた右手でポコスカと叩いていきます。ダメージが入っている様子は感じませんでしたが、怯んだのは分かりました。だからと放して弟を追わせるわけにはいきません。2~3分はそうしていました。
 時が経ち、妹が呼んだ大人が現場に駆け付けました。安堵から私は手を離し、犬はその場から逃げ去りました。
 数日の内に犬は捕獲され、私も野生動物由来の伝染病に罹患していないことが確認され、皆胸を撫で下ろしました。
「大学芋くらい置いて逃げたらよかったのに」
大人はそう言いましたが、私はあの時、私以外の全てを守る気でいました。生きるために闘う者の殺意を前に、自分の死を覚悟して動いていたのです。
 そしてそれが、初めての命を賭した行動でした。

 この死の覚悟を以って、私の幼年期の終わりとし、ひとつの区切りといたします。

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