正解、答えありきの社会の窮屈さ @芸術的人間学Vol.1
■芸術的人間学
2010年から2012年まで、立教大学のコミュニティ福祉学部の
福祉学科、政策学科、スポーツウエルネス学科という3つの学科の
必須の中の自由選択科目として芸術的人間学と言う科目を
立教大学兼任講師として担当した。
オファーを受けた時は、「これからカリキュラム改正で、閉講となる
科目だが2年教えて欲しい!」という話であったが、結果的に予定より1年長く打ち切りが延びた感じとなった。文科省が芸術科目、哲学の科目を
削減し、経済や、すぐに結果の出る学問を優先させていく流れにあった。
自分の学生時代を思い返してもだが、自分の専門でない科目など、
やる気具合も幅があり、それでもこの講座を通して何か1つヒントなり
なってくれたら良いなあと思いながら教えていたし、芸術の科目で、
落としてもしょうがないから、Dと思ったのは基本Cにした(笑)
このコロナ禍でより分かったと思うが知識を知恵にできるか、
理解したことをどう解決するかという事が大切になってくる。
学問1つにしても、何か目に見えない豊かさに繋がる科目、
または、自分の心や精神を何か問題が起きた時に紐解くヒントが
あるものを教育の場も軽視してきた流れがある様に私は思う。
今起きている問題が、決してコロナ禍で起きた問題でない事が多く、
私の見聞録からの芸術的人間学をシリーズで綴りたく思う。
■芸術的人間学を教える中で
芸術的人間学のオファーを立教大学から受けた時に、
大まかに言うと「1人の作曲家とその作品を通して芸術的人間学を
教えて欲しい!」ということだった。
この科目を担当しているのが私だけだったので、参考に聞ける先生も
おらず自分なりに考え、モーツァルトを取り上げることとした。
私の母校は東京藝術大学なので一般大学の雰囲気を知らないので、
六大学の名門立教大学という事もあり、音大でも教えないぐらい
コアな内容にしたら、初回起きている人の方が少なかった(笑)
その時は、ムカついたけど(笑)、まあ、私も若葉マークで、
いつもアーティストとしてや、私にリスペクトが最初からある場でしか
講演をしてきていないので、楽そうと思って単位の為だけに受講する
学生が大半だろうから致し方ないといえば致し方ないと思った。
そこから1人でも多くの人を興味や関心持たせるための私の闘いが
始まり、プライベートで色々な業界の諸先輩の意見を聞いたりした。
初年度は、モーツアルトだけを教えたのだが、
次年度から、勝手にカリキュラム変更し(笑)、色々な作品を通して
講義した。なぜなら、モーツアルトの音楽が好きでなければ、
音源も聞かせたり映像も見せるのに挽回できないなあと考えた為に。
自分が持っているDVDなんて字幕が無いのもほとんどだし、
非常勤で経費も何も出ないけど、無償で教えている感じぐらいに
資料として買った(笑)受講側は何を見ても同じでも、
新たに買って、映像見て自分がその公演のクオリティーがいまいちと
思えば買い直したり。そら寝てたり、まして私語したら
カッチーンですよ(笑)試験のレポートなんて、学生には悪いけど、
私がリサーチしたい内容や若い人達の感覚を知りたい内容だった。
甲子園に出た事のある子で、優勝校だったらしいけど、
私がその時に教えてない年の内容の事をレポート試験に書いていたり(笑)
丸写しするなら完全犯罪して下さいと(笑)でもそこで本当の一流か
三流かが分かるし、参考資料を丸写ししている子達は、
たぶん教える側がどれだけ文献もネット記事も
読んでいるか知らないから、学生はバレてないと思っていて、
こっちはどれを何を引用しているか分かっているという(笑)
それを見ながら、まあ、社会に出て厳しい洗礼を受けてくれとしか
思わない。自分の考えを書けないというのは、どんな分野に行っても
上手くいかないと思う。どんな人も本来自分の好きな事なり、
得意な事なり、感じてる事があって、その事を中心に、
自分が知らないことや、得意でない分野に対しても
自分の考えを書くことができる。もし、それができないなら、
別に大学に来る必要が本当は無いと思う。なぜなら義務教育では無いから。
これは切り捨てている様に響くかもしれないが、
このコロナ禍で、昨年大学に入学した子達もオンラインだけなら、
恐らくもう大学と言う意味や価値は無く、大学に行かなくても
知識だけで考えると世界のオンライン授業をアクセスできる訳で、
オンラインの世界であれば大学にこだわる必要が無いし、
単に丸写しするぐらいの学問の意識なら汗水流して働いた方が
私は幸せに思う。なぜなら、とりあえず大学に行っても、
今回のコロナで現状や現実が分かった様に思う。
そして、私達の様な実技が大切な分野は、オンラインなら、
絶対に海外のオンラインレッスンを受講した方が、コロナ後の
為に良い。ただ現実問題、プロ志望ならオンラインレッスンでは
なかなか成長に限界があると私は思う。
■コロナ禍での問題や特措法等の罰則って
コロナ禍で見えてきたさまざまな問題。
私は学生時代亡き両親の看護をしていたが、当時から
厚生省は、病院の床数を減らす命令を病院にしていた。
この6年前の記事を見て分かる様に、
今の医療の混乱はこういう部分から始まっていた訳である。
床数を急遽慌ただしくコロナ禍で増やしているが
単に感染症対策だけでは無く、国が病院にあまり入院さすなという
政策から始まっている。
コロナ禍が起こる直前も社会は、政治は、こうやって
時間のかかる研究を軽視してきたのが分かる。
その癖ワクチンのスピードや医療の圧迫を現場に押し付けるというのは
いかがなものだろうと思う。日本人は、たいして選挙にも行かない、
常日頃から社会問題も注視しないくせに、誰かがいつも助けてくれると
思っていたり、自分達が政治に1票を投じてきていないのに不満ばかりを
ぶつけていると思う。これらの記事を見て分かる様に、
今まで軽視してきたツケがコロナ禍で露呈されただけである。
メディアもワクチンうんぬんを言うなら、こういうips細胞の
研究費の打ち切りの話が出た時に、今のコロナ問題ぐらい
徹底した報道をしただろうか?
そして、特措法。人を罰する為の法律。
これをコロナ禍だけで無く考えても、これまでの特に
小学校から高校までにおける校則。規律を乱す者が増えれば
厳しくなっていった様に思う。勿論、過度な校則も多く見受けられ、
それはそれで問題である。
また川辺や海辺で自由にバーべキューや花火ができたのに、
禁止になるのは、やりたい放題で、片付けもせずゴミを散らかして
帰る頭の悪い子達のせいで法律など、どんどん厳しくなっていく。
頭の悪い行儀の悪い子達が面白いのは、自分達が一番縛られるのが
嫌いな癖に、マナーが無いが為に、そういう子達がハチャメチャな
おかげで社会は、どんどん法律や決まり事が増えていく悲劇。
身勝手な奴が自分達が率先して生き抜くい社会を作っていってる。
だから、頭の悪いと言いたくなるのである。
そこで、大切になるのが家庭でのしつけ、学校教育、社会教育
である。ただ年々、勘違いした過度な暴力によるしつけや、指導が横行した
為に、しつけもせずに子供をのびのびととか、学校や社会も
すぐ体罰やハラスメントと過度に言いすぎて、無法地帯みたいな
現象が起きている。それらが引き起こした結果、
罰則や法律が増えていく事、人の行動の制約を
権力や法で施行できるのは非常に危険である。
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