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お金で解決する父の愛は確かに愛だった

長文の上、近親者の死を取り扱っています。
お辛い気持ちになる可能性もあります。



父が死んだ。

2~3日、咳をしていて、年度末の公務員である私や一応受験生の息子のためか、食事を一緒に摂らなくなっていた。ので、ほとんど父の状態を見ていなくて、唯一あれ?と思ったのが玄関の戸締りをして帰ってきたと思ったら突然床に座り込んだとき。
けれどその時は視線の先に猫がいたので(ああ、猫に嫌われてはいるけれど猫をかまいたいのだな)と思っていた。

その翌日の夜中、呼びかけに反応が薄くなっていることに気づいた母が救急車を呼んで、父は自分で診察券とお薬手帳を取り出し、自分の足で歩いて救急車に乗った。
そのまま、意識がなくなった。

同じ病気の人に不安を与えてしまうから詳細は避けるけれど、私の家から10分の距離に拠点病院でもある三次救がなかったら即死だったと思う。
よくも夜中の搬送であそこまでの処置をしてくださったなぁと思う。
さすがだなぁと思うし、家族への配慮も行き届いていて、総合病院とはいえ救急対応をしていなかった元職場との違いをまざまざと感じたりもした。

とりあえず一命をとりとめて、意識が戻って状況がよくなったらオペという段取りになって、私は「今のうちに」と仕事先に行って持ち帰れるものは持ち帰り、個人情報のものはその場で片付けて、各関係機関に謝りの電話を入れ、一週間の休みを確保した。
一晩の付きそいに疲れ切っている、普段から対応能力の低い母のことは、息子に任せておいた。運転免許を取ってもらっていて本当に良かった。
大学が休みに入ったばかりで、4月からは卒業研究で休みなく研究所にこもることになるがために遊びの約束を入れていた娘には「とりあえず帰ってきても話はできないけど、どうする?」と話をして、あまり急かしてパニックを起こさせるのも嫌だという思いと、父はきっと大丈夫だという思いから予定通りに帰ってくるように指示をした。

救急搬送から3日目。
空港まで車を飛ばして娘を回収し、そのままICUの面会時間に滑り込んだ。
「父さん、初孫が帰ってきたよ」
その夕方から容態が急変し、翌朝の日勤帯、主治医の登院を待つようにして、父は死んだ。

夜の間家族はずっとICUに付き添うことを許可されていたけれど、カーテンで仕切っただけの空間にいろんな患者さんのモニター音やアラームやコールが響くので、聴覚過敏の息子と、たぶんこの記憶と音が頭にこびりつくだろう娘と、度重なる病院からの呼び出しに疲れていた母には家族控室にいてもらい、私だけが父の隣にずっといた。
私の元勤め先にはHCUしかなかったけれど、医療機器の発する音は私にはなじみが深く、なんとなく落ち着くくらいのものだったから、私がついていようと思った。
父につながれた沢山の機械やチューブや、そんなものを見ながら最初の日は「父さん、今一番税金使ってるな!」と思ったり「家に連れて帰るならまず医療連携室の〇〇さんにつないでもらって、訪問看護はこの病院の訪問チームの△△さんと前に会ったことあるからお願いしよう。介護保険の申請とケアマネは◆◆さんに来てもらって、ベッドレンタルとか福祉用具は□□さんに連絡を取ろう」とこの先の段取りを考えたりしていた。「あー吸引のFr覚えておこ~」とか「酒精綿まだ家にあったかなぁ」とか考えたりもしていた。
けれど、その時ばかりは「ああ、これは最後の瞬間なんだなぁ」と思って、ぼんやりとバイタルモニターを眺めていた。
医療知識なんて持つもんじゃない。
父親の命の終わりが、どんなに医療従事者たちが励ましてくれても、どんなに母を落ち着かせようと言葉を選んでも、私にははっきりと近づいていることが理解できてしまうのだから。

結局、父は母と私と娘と息子に囲まれて最期を迎えた。
「良いようにしてくれ」
病院でもどこでもそう言ってプロに丸投げする癖のある父は、よく私に呆れられていたけれど、母はきっぱりと「苦しいことはやめてほしい」とDNRを宣言したし、私たちもそれでよかったから、本当に眠るような最期だった。

そこから、自分のしてきたことがあまりよく思い出せない。
人任せが大好きな母は私を喪主に据え、葬儀から手続きから、相続に至るまで、すべてを私がすることになってしまったので、頭が追い付かなかったのだ。

病院から父を家に連れて帰ってきて、さて菩提寺に連絡して枕経をお願いして、ほんの数十分の空白時間。
父が懇意にしている税理士事務所から連絡があった。
「確定申告の計算が終わりました!」
と、元気な女性が伝えてくれたのですこし申し訳なかったが、申告者死亡のまま確定申告してはいけないので、父の死を伝えた。
「え…」と絶句した電話の向こうのその方は、お悔やみを述べてくださり、私たち相続人のすべきことを最低限教えてくださった。
その電話がきっかけで、父のデスクを片付けて、通帳や重要書類を探っていく中で、私は一つの書類を発見した。

私の祖父、父の父が「家族が食べる分のコメはこの土地で作るんだ!」と言って最後まで誰にも貸さなかった土地がある。
けれどその土地で稲作をする人がいなくなっても、父が相続しても、なぜかその土地を誰かに貸したり、売ったりすることがなかった。
幹線道路に面しているから、何度も打診されるのに、父は頑なに断っていて、私はそれが不思議でならなかったのだ。
重要書類の、父の几帳面さが面倒なくらい伝わるファイルのなかに、その土地にまつわる契約書があった。
根抵当権。
つまり、その土地は、いざ借金をするときの、いわば我が家のストックだったのだ。
そんなもんローンでいいじゃないかと思いながら、父が借りられる額を増額している年月日をみて驚いた。

私が小学6年になった年だった。

当時の私は今の私からは想像できないほど勉強が出来て、周りから浮いていたくらいだった。
一度だけ「医者になる金なら用意できる」と父が言ったことがあった。
内心、医者になれば女でも、養子である私でも、一族や社会に舐められないで生きていけるだろうかと考えていたから、とても驚いたのを覚えている。
その、用意できる担保が、この土地だったのだ。
その金額がちょうど、私立の医学部を卒業できる学費と同じくらいだった。

確かに私は父と血のつながりがない。
そして「父は男の子をもらいたかったに違いない」と思うことがたくさんあって、その申し訳なさを子どものころから感じていたから私は父が苦手だった。
コミュニケーション能力の高くない父は接点の少ない思春期の女の子に何をしたらよいのかわからず、小遣いを渡すだけの期間も長く、「父はお金だけで解決する…」と哀しくなるようなこともあった。
けれど、父は正しく、私の人生の充足を、お金で解決できる限りしようとしていたのだと、根抵当権が教えてくれた。

愛されずに育ったと43歳になって尚、苦しんでいた私に、父が死して後に教えてくれた。
私は確かに愛されていた。

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