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詩か散文か

母と祖母が私を訪ねてきた。私への差し入れが23kg制限ギリギリに詰まった大きなスーツケースを3つ、大阪からはるばる運んできてくれた。本当にありがたいことです。

久しぶりに大阪バイブに触れ、エネルギー補給。一生大阪に住み続けたい。

私たちはオスロと大阪からそれぞれロンドンで待ち合わせをし、その後ベルゲンというノルウェー第二の都市でフィヨルド見学ツアーに参加、そして私の生活圏を見にオスロにやってくるという計画になっていた。ロンドンを訪れることは祖母のかねてからの夢で、彼女はエコノミークラスで13時間のフライトを経て朝6時にヒースローに到着したその日にロンドンの街を20000歩も闊歩したそうだ。79歳になる背中は以前よりかなり小さくなったが、私の背中よりもずっと広い。

ロンドンにてミュージカルを鑑賞。
親が親孝行している姿を目にし、圧を感じる。

ベルゲンではソグネフィヨルドという世界で二番目に大きいフィヨルドを丸一日かけて200kmの道程を辿った。眼前にそびえる山々はチラチラと日を反射する深緑に覆われ、その中にところどころ山肌が涙の跡のように垂直に露出していた。まるでガラスを張ったかのような美しい水の流れ、身を投げ出して踊る滝のスケールなど、日本のものとはまた表情の違う穏やかでかつ厳然とした大自然に晒され、そこはかとなく孤独感を感じた。

ショースの滝

私はこれまで、人は言葉で世界を切り取ると考えていた。以前投稿したnoteに

言葉にまつわる営みはいかにそれが瞬間的であってもその時点のその人の過去の人生と未来に関わる行為である。言葉の扱い方を学ぶ授業というものを敷衍して考えてゆくと結局は世界の見方の話に帰着する。高校の倫理の授業でソシュールを知ってから言葉の豊かさ文章の豊かさは自分を取り巻く世界の捉え方の豊かさに関係するような気がして、それを意識するときには自分が五感を使って感じることがそれぞれの対象に対して蛇腹を開くように膨らんで見える。

お料理楽しい、本読む │ bekko

と書いていた。これはあながち間違いではないと思っているし、世界を詳細に捉えるために言葉を使うと考えていた。

しかし、今読んでいる本に、少し考えを変えてくれるような記述があった。

詩と散文との区別については、すでに述べました。詩は、言葉の意味と響きとをふくめた全体をもって表現するものです。散文は、言葉の意味をもって表現するものです。詩人は、まず世界を直接に、すなわち言葉を媒介とせずに感じ、その感じと等価値的な言葉を探します。この場合に、世界と言葉とは、いわば二つのもののシステムとして詩人の精神の前にあるので、詩人は、言葉をものとして扱う人間だということもできます。
これに反して、散文家は、はじめから世界を、言葉を通してながめます。言葉を通してながめるとは、意識するとしないとにかかわらず、その人と世界との関係を定義することである。この場合の言葉は、もののシステムではなく、意味づけを伴う符号のシステムです。詩人と散文家との、世界に対する態度、言葉に対する態度は、本質的にちがうということを、わたくしは、述べました

加藤周一 (2014)『文学とは何か』, 角川書店, pp.79-80

加藤は後ろに「純粋な詩人とか、純粋な散文家とかいうものは、考えを進めるうえに必要な抽象的存在であって、この世の中に生きて歩いている人間ではありません」と述べている。
先に挙げた私の主張は無論後者の、散文家としての立場に基づくもので、これはここで加藤の示すような詩人的感覚を捨象しているような気がした。確かに、全部言葉で説明がつくというのはかなり傲慢な感じがする。

たこやき用舟皿は文化祭だけでなくフィヨルドクルーズ船売店のチーズケーキにも使われていた。

言葉以外の世界の切り取り方

自分の内部にある混沌を人に伝えるために切り出す営みのことを「芸術」と呼ぶと考えている。その媒介としての手段によってそれは「音楽」だったり「美術」だったり「文学」だったり「身体表現」だったりと呼び分けられる。今まで出力の観点からしかこれについて考えてこなかったけど、これは逆の方向、入力、すなわち世界を知覚する方法にもなりうるのではないかと気づいた。

昔一緒に暮らしていた人は絶対音感を持っていた。私が手を叩いたり鼻歌を歌ったりして「これ何の音階?」と尋ねる度にいとも簡単にドだのミのフラットだのと言う。それがあっているのか間違っているのかすら知る由もない私には見えない世界が彼には見えていた。
芸大の友人と絵しりとりをしたとき、彼女は対象を正面からではなく下からのぞき込むようなアングルで描き、それによって絵はより状況を鮮明に伝えるようになった。彼女には私には見えない書き順が見えている。

本当はもっと無自覚に処理を行っているのだろうが、まず私自身に音楽的・美術的リテラシーがなくそもそも理解が出来ない上にそれを文章で説明しようとしているのだから、いったん最低限確実なことだけ記述しておきたい。これらはきっと彼らの訓練と経験による賜物なのであろう。きっと理論づけられた技術や培われた知識は「より良いもの」を作るための手段になるだけでなく新たなセンサーを与えてくれる。その経験は人生の選択肢と世界に対する解像度を上げて生活を豊かにするはずだ。

ロンドンにて半年ぶりの丸亀製麺。かしわ天、、

「感覚」で受け止める

ソグネフィヨルドでは視覚のみならず五感すべてを使って私は私の身体を媒介としてそのすべてを味わっていた。そして、味わいながら、これを文章で全て説明するのは不可能だと悟った。悟った上で挑み、失敗し、悟りを強固にした。だが、それでよいのではないかと思う。きっと大切なことはソグネフィヨルドの山々から五感で得た情報を正確に日本語にすることではなく、その「感覚」を読み手の内部に再現させるような言葉を選ぶこと。言葉で世界を切り取るのではなく、感覚を伝えるための言葉をあてがう。内容だけでなく、音の響きも含めた「ことば」そのものの生身感を活かす。
中学のときに村上春樹の「1Q84」を読んだ。正しくは、読もうとした。弱冠13歳の中学生に理解できる訳もなくあえなく上巻で挫折したのだが、それでもそんなに多くない文章を基に情景はありありと想像できたのを覚えている。それはきっと筆者が情景を「描写」していたのではなく、情景に合う言葉を美しく見つけ出していたからだろう。

幼い心は言葉を分析せずにそのまま複写することが出来る。6歳のときに覚えたえほん寄席「あたごやま」は、23歳になろうとしている今でも頭から最後まで一言一句違わず演じられる。香港や台湾では日本のアニメがよく見られるらしく、皆幼いころに視聴したケロロ軍曹やクレヨンしんちゃんの中の日本語のフレーズを意味を知らずに覚えている。
このように童心が世界を丸ごと知覚する一方で、大人になってなにか新しいことを始めようとすると、どうしても「端」を探してしまう。はし、つま、へり、きっかけ、てかがり。「こちら側のどこからでも切れます」をあらゆる対象に探してしまう。

寮の目の前のスーパーで量り売りされているエビを湯がいてモリモリ食べるという選択肢が甲殻類大好き母によって提示されたことにより、後期の飲酒ライフが充実する予感。

もう一回具体的に世界を見る

以前まで「マイナス感情は論理的に殺す」というのを半ば信条としていた。鬱の芽は理詰めで枯らす。そのために感情を深堀りして理由を見つけてそれを解決する、言葉で。それでどうにかなると思っていたし、どうにかしてきた。でも言葉で感情を整理しようとするとどうしても矛盾の出る場所が現れる。感情なんだから矛盾もへったくれもないのに、白黒つける言葉で皺を寄せてしまって、そうしてしわしわになった心を「言葉で全部説明がつく」という信条のもとで無理矢理引き伸ばしていた。私は言葉が強いがために(むしろ言葉以外がないと言った方が正しいのだが)言葉で整理しようとすると余計に足を取られるように、昔一緒に暮らしていた彼は音楽で、芸大の友達は美術で、感情をはじめとする矛盾に満ちたものを整理しようとすると私と同じように躓くのだろうか。
孤独や悲しみは無理に整理しないで、胞子にくるまれた状態で、流れ去るまで見守るのがいい。

古来詩人の心をもって童心にたとえたのには、理由がある。しかしその理由は、子供の心が純真無垢だからではない(純真素朴な農夫が都会人の空想であるように、純真無垢な子供は成人の空想にすぎないだろう)。そうではなくて、子供は社会に対して無責任だからである。責任がないから、その経験を積み重ねて、法則を見いだす必要もない。したがって経験を分類し、分類するために抽象化する必要も少ないだろう。すなわち具体的経験をその具体性においてとらえることができる。

加藤(2014),  pp.178-179

私は十分社会において責任を持たなければならない立場になってしまったし、その責任はますます増大してゆくことだろう。そうなったときに俯瞰で(=抽象的に)物事を捉える視点は欠かすことが出来ない。でも、どうしても社会生活をしていると言葉で考えすぎて脳みそがヒートアップしてしまう。だから言語で「端」を探し続ける脳を時折ほぐしていたい。そのために、音楽と美術を知らないことを逆手にとってみようと思う。

こっちで一緒に過ごしている人に広東語の音楽をたくさん教えてもらった。いくら歌詞を解説してもらっても言葉からそのまま理解できる訳もなく、基本的に音の響きを楽しんでいる。これまで邦楽を鑑賞する際は徹底的に歌詞の意味を考えつくしていたので、真逆の楽しみ方だ。音楽理論のことは一切分からないから何も「分析」せずに、ただ対象に没頭することが出来る。

自然の説明のつかなさを忘れて、ともすれば全部言葉で説明が出来るのではないかという傲慢さを抱いてしまう。そうなったら、湖に行って上手くない絵を描いてみようと思う。丁度このあいだ日本に帰国した友人が私の家に画用紙と絵具と筆を置いていったところだ。

さようなら〜また半年後

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