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お料理楽しい、本読む

今日は茄子のバター炒めをつくりました。茄子を輪切りにしてバターを乗せて蒸し焼きに、しんなりしてきたら塩こしょう、出汁醤油(日本から持参)をで味を整えて仕上げました。

お茄子に染み込んだ味わいが口の中で溢れ出てきて、あまりの美味しさに久しぶりにビールを頂いています。2か月アルコールを抜いた身体には缶ビール半分で少しほろ酔い気分で、酔っ払いついでに久しぶりにnoteを書きます。

一時は記事を書きたくて書きたくてしょうがなかったのですが、最近は、具体的には3月半ばから、何かと、日本語で物事を考えるのを極力避けてみたり、課題が忙しかったり、なんかしんどかったり。いや、主に自己逃避という言葉で説明のつくことが文章を書くためにまとまった時間を確保するということを遠ざけていました。

でも留学をすると価値観が変わるというのは本当で、毎日自分の思考は定点観測だからじわじわとした変化を捕捉するのに疎いけど、多分タイムマシンがあったら同じ質問に対して1月こっちに来たての私と今の私は全く違う答えをするのではないかと思います。そしてそのタイムマシンとして人に見せる体で、ある程度しっかり考えた文章はやっぱり置いておかないといけないな、と思って書きます。

5月17日はノルウェーのナショナルデーでした。
国を挙げた祝祭で、朝から子どもたちを中心としたパレードが市街地を練り歩きました。
雲一つない快晴

最近かなり自炊が楽しい。日本にいたときはついぞ食なんぞには興味がなかったが、最近は自分の生活に当事者意識が芽生えてきたためか日々食事の時間を楽しみにしているようなところがある。自炊とは言ってもそんな大したものを拵えるわけではなく大体野菜を何かしら調理して日本から持参した出汁やら味噌やらを使って何かしら味付けをすることが多い。これまでしっかり料理というものをしっかり教わったことはないのだが「こっちのドレッシング美味しないから油とお酢と醤油でつくったろ」とか、「味噌汁に入れる茄子ちょっと表面炙ってから入れたろ」とかレシピなどなくとも己の感覚に従って調理・味付けをすれば大体の確率でおいしいと言える代物が出来上がる。恐らく全てこちらのローカル食材・調味料でそろえるとこうはいかない。

私が何となく日本の調味料でうまく食事をつくれているのは、私がこれまで蓄積してきた和風味付け料理のデータベースが豊かだからだろう。引き出しが多く、アイデアも取り出しやすい。ありがとう、お母さん、おばあちゃん。逆にノルウェーで一般的な調味料のデータベースは乏しい。したがって、もし仮に和風調味料を封印されたとしたら私はたちまち食に嫌気がさし、三日に一度ドカ盛りパスタで炭水化物補給をすることでなんとか生命を紡ぐような生活となるであろう。生きた経験の蓄積ほど役に立つものはない。

ところで、最近自分の言葉の質を高めたいと思っている。英語も頑張らないといけないけども、そもそも日本語の質を高めたい。自分の文章にはどうにも深みがないような気がするのだ。今書いているこれも文法単位で立ち止まりながらこう、ぎこちなく書いているような気がして、いや、それも悪いことではないんだけども、もっと、こう、文章を編むという感覚が欲しい。

幼いころは文章を書くことに何の抵抗もなかったと思う。今でも覚えている。小学校のときに物語を書くという課題で自分の筆が止まらず、結局2-30枚の原稿用紙を提出した。今でもその量の文章は当然書けるのだろうが、あの編むような、どこまでも言葉が無尽蔵に湧き上がってくるような感覚は今失われているような気がする。
その当時はそれはそれは大量の本を読んでいた。小学5年生のときに学校の図書館にある本はあらかた読み切ってしまい、図書の時間にすることがないと担任に抗議をしたのを覚えている。特に那須正幹の『ズッコケ三人組』シリーズはまさに狂ったように読んでいた。少し大人びた筆致でつづられた文章は小学3年生の私の言葉の世界を広げてくれた。

王宮へつながる大通りの風景
ナショナルデーには「ブーナット」という民族衣装を着ます。女性用のブーナットのデザインが本当に素敵で、街ゆく人々を見飽きることがありませんでした。

いま、文部科学省から配布される教科書を用いてオスロ近郊在住の日本人小学生の国語と算数・数学の学習補助を行う補習校の授業補助のボランティアをしている。特に国語の教科書の中には未だに私が知っている物語が扱われていたりして非常に懐かしい気分になることもしばしばである。10年以上前の大阪の公立小学校の児童と2024年にノルウェーで暮らす小学生が同じ文章を「国語」として学んで考える光景は非常に興味深い。彼らが文章に対して元気に発表する様々な解釈の中には、私には思いも寄らないものもたくさんある。彼らの豊かな解釈に見られる幼い心の素直さに感心する一方で、もしかしたらここに暮らしている価値観ならではなのかもしれないと思うと、言葉に対して取り組むという行為はいかにその人の経験や価値観を反映して、かつ同時に未来に向けてまたそれを再生産してゆくかということについて考えずにはいられない。

言葉にまつわる営みはいかにそれが瞬間的であってもその時点のその人の過去の人生と未来に関わる行為である。言葉の扱い方を学ぶ授業というものを敷衍して考えてゆくと結局は世界の見方の話に帰着する。高校の倫理の授業でソシュールを知ってから言葉の豊かさ文章の豊かさは自分を取り巻く世界の捉え方の豊かさに関係するような気がして、それを意識するときには自分が五感を使って感じることがそれぞれの対象に対して蛇腹を開くように膨らんで見える。

この記事の導入部とそれ以降は文章の形式が違うから、何となく雰囲気も違うはずだ。これは最近読んでいる本が「です・ます」調で書かれていて、なんだか知的で穏やかな感じがしていいかもと思ったのでその雰囲気を真似て導入部を書いたが、どうも書きづらくなって「だ・である」調に文体を改めた。こっちの方がよっぽど書きやすいし、何しろ私の人間性にあっているような気がする。むしろ誰やねん最初の人間。
文章はひとりひとりクセが違う、それは文章はその人の世界の切り取り方を如実に物語っていることを意味する。今まで読んできた・聞いてきた文章の文字どおりの蓄積で、それは本棚を見る以上に露骨に個々人の読書傾向を反映する。その人がこれまでどんな言葉を浴びてきたのかということの蓄積。

国語の授業は文章の編み方を体系的に教えてくれるわけではない。文章の書き方を教えて練習させることは出来ても、あの、湯水のように湧き上がってくるような筆が止まらない感覚はやはり言葉を浴びることによるものなのだろう。

ロイヤルファミリーはずーっと立ちっぱなしで手を振っていた、、私やったらしゃがんでる

質の高い経験は質の高い技術になるのではないか。ここでいう「質」はそんな上等なものではなくちょうど私が焼肉のタレとヒガシマルうどんスープで大体の料理を自分が満足できる程度においしく仕上げられるような、血肉として、「本物の」、でも「お手軽な」感覚。本物だからこそお手軽に取り出せる。そして文章においてそのデータベースを充実させるために、私はいま本を読まないといけないな~と思っている。

今までの留学で生きた言葉を通して外国語を学ぶことの大切さを理解してきたが、語調やどの漢字をひらがなにひらくのか、言い回しや語順などいま私たちが日本語で文章を書く際にこだわるような繊細さに値する感覚を外国語に対して同程度に持つことは難しい。少なくともまだそのレベルに達していない。いずれそのようなことが理解できるほどになれたらと思うが、恐らくどこまで行っても母語のそういう感覚は多分もっと広くて、先に述べた通り世界の解像度のような、根幹の部分をもっと鍛えるためには母語の感覚を磨き続けることが不可欠な気がする。日本語を話せるからと言って、日本語を学ぶことを辞めてはいけない、、

いまはスウェーデン人で僧侶のBjörn Natthiko Lindebladが著した ”I May Be Wrong: The Sunday Times Bestseller” と、伊藤亜紗の『手の倫理』を同時並行で読んでいる。この同時並行が結構いい。特に集中力のないタイプの人間にはかなり向いている。シンプルに英語で本を読んだ後に日本語を読むとあまりにもすらすら読めて感動する。ただ、ともすれば洋書を開くのがおっくうになってしまうため、意識的にそちらを開くようにはしている。しかし、全くジャンルの違う2冊を選ぶことで洋書のみ読んでいた時よりも楽しんで進めているような気がする。

本読むぜ!

ナショナルデーをお祝いするケーキ
かわいー

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