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堕落さえできない

近頃は夏休みで授業もアルバイトもなく、知り合いも続々と帰国し、何となく朝起きては適当な電車に乗って遠くに行ってみたり、コロッケを作ったり、大掃除をしたり、友人と通話したり、音楽を聴いたり、サウナに行ったり、いくつかエントリーシートを出してみたりして過ごしています。一年間かけて読もうと思って大変な思いをして日本から持ってきた本は全部読み切ってしまって、どうしようかなと思っていたときに青空文庫の存在を思いだして、坂口安吾『堕落論』を読みました。

何者かになるというのは、社会の中に大きな価値軸があると非常にやりやすい。ただ軸の中で「良い」側に立って「悪い」を糾弾しておればいいからだ。『堕落論』の中で述べられている天皇制、武士道、貞淑もそうだし、戦時中ならお国のために尽くすことだっただろう。以前国防婦人会に関する研究をしたときに、これまで家庭内だけでその役割が完結していた女性が婦人会での活動を通して「銃後の守り」として社会に役立っているという自己実現の喜びを抱いていたということを知った。全体主義が簡単なのは何もしなくても自分が取るべき行為を誰かが勝手に提示してくれているからで、ただそれに従って生きているだけで社会は自分の存在を認めてくれる。

ところが玉音放送が終わって、今まで白だったものが黒になって、黒だったものが白になって、それまで従っていたら良かっただけの価値観が全部ひっくり返ってしまって、何をしたらよいのかを各々我で考えなければならなくなってしまった。行動規範がなくなった社会で戸惑う人々に、安吾は表面上の言動だけを変化させるのではなくてまずは今までの価値尺度から完璧に脱する「堕落」を説いた。これはキリスト教が力を失った社会での生き方を提示したサルトルに似ている通じるところがあると思ったし、戦争が終わって価値観が180度ひっくり返った時代の戸惑いと、今の個人主義の戸惑いにもどこか共通するところがあるような気がする。


人生で一番楽しかったのは間違いなく予備校生活期間である。一般的に浪人は辛いものとされているらしいが、少なくとも予備校生活はとっても楽しい。偏差値という価値軸で出来るだけ上に行くための努力をしておればよいし、河合塾はその努力の方向性さえも示してくれる。言われたことをただやっていればご褒美がもらえる仕組みを活かして念願の第一志望に合格した。
恋焦がれて始まった大学生活。阪大生になったら何者かになれると思っていたが、大学生活は何も与えてくれなかった。むしろ自分で新しい価値軸を探さないといけなくなって、非常に混乱した。偏差値競争が終わったら、今度はどんな競争に身を投じて、何をモチベーションに上がってゆけば良いのか?いや、その「上がる」の軸さえ知らない。

就職活動、一応乗ってはみるけど、どうでも良い。どうでも良いと思っていても説明会の動画を見て自分の過去を振り返って貴社と私を関連付けることを書き始めると航空会社だろうが飲料メーカーだろうが新聞社だろうが全部が天職に思えてくる。一週間ほど狂ったように就活のことをやって、一日休んだら、またどうでも良くなった。
これはもう運命で絶対結婚したいと思った人ともいったん離れてしまえば生きてようが死んでいようがどうでも良くなる。大学時代にのめり込んだ部活動は生活の中心だったのに、やめてしまったら潰れようがどうなろうが毛ほどの興味もない。
学歴社会にしろ恋愛にしろ組織にしろ、自分を貫くような価値観がないから刹那的に行動規範を与えてくれる小さな信仰にすがって、そして憑き物が落ちたように小さな堕落を繰り返す。トカトントン。

何者になるかの価値軸さえも自分で選ばなくてはいけなくなったこの時代にSNSがあることは偶然にしては出来すぎている。自分はどういう人間なのかをインスタグラムの自己紹介欄に書いたり、または何も書かなかったり、アイコンを設定して、スマホの性能に委ねた写真と、他人の言葉や音楽で表現するお湯注いで3分の自意識。
16種類に分けられた「パーソナリティ」や3種類の骨格、12種類になった皮膚の色。「推し色」を身にまとって全部の行動選択がアクスタと共にある。くだらなさ過ぎて逆らっていきたいけど、逆らえるほど強くない。そういう誰かがくれる価値軸にすがっていないと生きてゆけない。

自分のことを変わってるとかトガってるって言ってしまうのは堕落さえもが自己を語る手段に見えるからだろうか。ファッションとしてのアンチテーゼは本当の離脱ではなく、持てる者の傲慢にすぎないのに。本当の社会規範からの離脱は想像もつかないほど苦悩に満ちているものだろう。
今、高校の同期は働き始めて、大学の同期も就職が決まっていくのに自分だけ所在なくブラブラして暮らしている。楽しかった予備校生活の代わりに今ある意味浪人として非常に後ろめたい。ちょっと人から遅れているだけでこんな思いになるのだから、本物の堕落の苦悩たるや。小さな堕落でさえもちょっと傷つくのに。

こちらで出会った友人が「働き始めたら楽しいことはないから、学生期間を長引かせるために修士に進学する」と言っていたのを聞いて、じゃあ死んだらいいんじゃない?と思った。彼の国は学費がタダだそうだから、でも、学生が終わった後に何も楽しみがなくてただ死ぬのを待っているだけで、効率以外すべて億劫に思うのなら、もうさっさと終わらせてしまえばいいのに。でももしかしたらあれは彼なりの、社会規範から堕落できない自分に対する嫌悪なのかもしれない。

全部どうでも良いのにその反面逆らうほどに文句があるわけでもないからすぐにインスタントな自意識を与えてくれる価値観にすがってしまう。価値観から離脱できない弱さ。小学校のときに宿題をサボろうとして、夜になって怖くなって結局完璧にこなして提出した。
私が意気地がなくて迎合して生活することで強化される規範、申し訳ない。ファシズムってこうやって進んでいったんだろうな。

僕たちは個人主義の中で新たな信仰を見つけては小さな堕落を繰り返しているだけです。毎回これが最後だったらいいのになと思って、飛びつくのは、自分の頭で考えるのが怖いからです。

ひとり、救いたい人間がいて、どうかなあ。

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