サントリーニ島で自我が崩壊する
大学に入ってからずっと行ってみたかったギリシャに先日初めて訪れることが出来た。アクロポリスなど古代の遺跡から骨董品が目白押しの蚤の市まで、アテネは食よし人よし海あり歴史ありで今まで訪れた外国で一番好きと言っても過言ではない素敵な場所であり、ここに住みたいとちょっと思うほどであった。
3日目からはハネムーン地として名高いサントリーニ島で過ごした。白い壁に青い屋根、エーゲ海を背景にした絶好のロケーション。典型的なリゾートの雰囲気である。島の中心地のフィラに宿を取り、荷物を置いて胸を躍らせながら海を臨む高台へ出かけた。道中、どこからか鈴の音が聞こえてきた。音がする方に目を遣ると、頭に陽気な装飾をつけたロバが十頭ほど、おじいさんと言って差し支えない年齢の男性に御されてやってくるのが見えた。ここにはロバもいるのか。異国情緒漂う光景に更に気分も高揚した。
高台から見晴らしの良い場所に向かって歩いていると、いつの間にか港に出るための長い下り坂の階段に差し掛かっていることに気づいた。かなり急な崖に作られていて、ヘアピンカーブが延々と続く長い階段だった。人間が背中に乗って上り下りするためのロバが階段に沿って並んでいた。これがさっきのロバか。鮮やかな馬装は白い階段でより一層映えていてとても可愛らしい。と、思ったのも束の間、よく見ると可愛らしいと思っている場合ではないことに気づいた。毛並みもよく、肉体は溌溂としているのにまるで生きているようではない。みな川のように目の前を行き交う人間に全く関心を示さないのである。それはそれは悲し気な目をしていた。長い睫毛は大きな眼に陰を落とし、その奥に生気はなく、時折尻尾を微かに揺らす他には微動だにしない。まさかロバに表情があるとは思わなかった。陽気な色の鞍をつけたロバが何十頭も生気なく並んでいる光景は異様というより他なかった。彼らはただ目の前を行き交う観光客の誰かが金を払うという意志表示をするまでそこで待たされ、見知らぬ人間を乗せて階段を上り下りして一日を過ごし、日が暮れるとどこか厩舎に戻され、そして朝には私が見たようにまたこの階段に連れてこられるのである。このロバたちはこの白い階段しか世界を知らないのだ。動物倫理のことを考えたことはあまりなかったが、とても悲しい気持ちになった。もともとは生活の用のためにサントリーニ島で飼われていたのに、その表面だけはぎとられて観光産業のダシにされてこんな陽気な牢獄に閉じ込められてしまっているのだ。可哀想に。何とも言えない気分になって路を急いだ。
高台からの道は繁華街になっていて、土産物屋がひしめき合っていた。ギリシャ語で「マティ」、英語で「イーブルアイ」と呼ばれる青い目玉の形をした伝統的な魔除け(🧿←これ)をモチーフにしたアクセサリーやギリシャ式の刺繍が施されたワンピース、水着、バッグ、ポストカード、インテリア、革小物、サンダル、アイスクリーム、ヨーグルト……心惹かれる商店が見渡す限り軒を連ねている。何かいいアクセサリーがあればいいなと思い、端から見ていくことにした。
しかしどれだけ一つ一つが可愛いとはいっても、何時間も同じようなアクセサリーを眺めているとゲシュタルト崩壊してくる。大体そもそも腕は2本しかないのにこんなにたくさんのブレスレットがあってどうするのだ。見渡す限りの商品、商品、商品。だんだん自分が何が欲しいのか分からなくなってきた。ここに何をしに来たのだ。商品が多すぎる。
一つ一つの商品はただの物体でしかないのにそれに利潤追求の意味合いが持たされて、「思い出」をベールに着た消費社会が「はよ買わんかい」と言わんばかりに押し寄せてくる。うー。ここにおいては俺の顔など関係がなく、消費社会において消費主体として存在するだけであり、構成員としての役割を果たしているに過ぎないのだ。「思い出」のように個別具体的な経験を尊重するように見せかけて、その実際はただ不特定多数の一員であるにすぎないので、実は別に私がここにいようがいまいが関係がないのである。
なんか全部がバラバラになってきた。目に入るすべての商品に社会的な文脈が交差的に持たされすぎている。自分の身体自体もではないか。なんでアクセサリーが必要なのだろうか?なぜファッションをするのか。自分を語るため、自分を服飾で物語らないと存在が物体でしかなくなるから。うー。なんで私はこの柄シャツをオスロの古着屋で気に入ったのだろう?なんで私はこのオレンジのカバンをアテネの蚤の市で気に入ったのだろう?なんでこのサンダルを心斎橋のGUで買ったのだろう?おれはこれらの物体を身に纏うことで新たにどんな社会的文脈を与えて、そして新たにこの社会に加担しているのだろう?
私はロバである。そこに存在していた/いるだけなのに勝手に社会が存在意義を規定している。ロバはかつて人々の生活の用を満たすために家畜として飼われていたのに、観光産業が発展して表面だけが剥ぎ取られて意味もなく階段を往復する存在となった。ロバたちがあの白い階段から逃れられないのと同様に、私もこのエーゲ海に浮かぶ美しい小さな島の中で消費主体として存在することから逃れられない。なぜなら私は観光客として「思い出」を担保に表面が剥ぎ取られたブレスレットを気に入り、楽天カードを使うことが期待されているからである。
実存が本質に先立ちすぎている。助けてくれ~~~~~~~~~
目に飛び込む商品が恐ろしい。社会が私に意味合いを持たそうとしてくる。あんなに素敵に見えたイーブルアイが購買意欲を惹起するための何百個もの目を持つ怪物に見えてきた。結局、何時間も消費主体として存在したために夜には「商品が怖い」と古典落語饅頭怖いさながらの呻き声を上げて同行の友人を困惑させてしまった。忘れ去ったはずの落研での記憶がこんな場面で顔を出すとは思わなかった。
なにがおかしいというと、人々の暮らしが全く見えないのである。2日しかない旅程の中で行ける場所が限られていたというのもあるだろうが、「地元の人間」が全く見当たらない。売りのはずの白い壁青い屋根の建物群はもちろん筆舌に尽くしがたいほどに美しいが、そのほとんどは土産物屋かホテルである。白い壁は強い日光に対処するためというのは想像に難くないが、では日光に対処する必要があるのはそこに生活があるからであるはずなのに、なのに、生活が全く見えない。風景だけが浮かんでいる。そしてみんなその美しい光景を背景にしてモデルのようなポージングをして写真を撮る。
なんか嘘の世界にいるような気がしてだんだん怖くなって、繁華街から離れようと海の方に歩いて行った。その道中にまた土産物屋があった。また「商品」を視界に入れてしまい重くなる頭を抱えつつ進もうとすると、ふとあるポストカードが目に入った。昔のサントリーニ島の写真である。これまで通りかかった何百軒もの土産物屋で見かけた街並みの写真ではなく、それは、数十年前の人々の写真であった。初めてこの島の光景に立体感を感じたような思いがして、すがる思いで2枚購入した。4人の男性がカフェのような場所で談笑している1961年の写真と、白い建物を背景にロバがパンを運んでいる1931年の写真である。こうして3ユーロを支払うことでまた消費社会に身を投じたわけであるが、不思議と悪い気はしなかった。
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