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帰国3日目、地元を感じながら映画を見た


 日本に帰ってきて3日目なのに、もうすでに「やることがない!!」って焦っている自分がいる。というか、家の周りに何もない。何もなさすぎるのだ。家にいても仕方ないから外に出ようと思ってもあるのはイオンだけ。電車で560円(今はもっと高いのかな)かけるとやっと都会に行ける。散歩しようにも家しかない街並みはかなりつまらない。ベルリンよりよっぽど広い家でゆとりのある街並みなのに逆に窮屈に感じる。
とりあえずなんかしよ!と思い帰国前から見たかった「君たちはどう生きるか」を予約した。

行く直前になって、面倒でも少し遠くの映画館を予約すればよかったと思った。家から歩いて10分のイオンの中は、あまりにも知りすぎてて楽しくない。電車を乗る口実を作るべきだったと考えたがお金を払ってしまったので仕方ない。


イオンに入ると、もちろん入れ替わった店もいくつかあるのだけど、それでも知ってしまっている感覚、誰かに会うのかも、見られているのかもという感覚に気分が悪くなった。と同時に何年海外にいようともここを知っている自分はここの人間であることを強く認識させられてしまった。

映画館について着席すると、まだ予告映像だというのにもう少し耐えられない気持ちになってきた。ここ最近、閉所というか止まっていなきゃいけないことがどうしても耐えられず、呼吸が浅くなることがある。この前もバレエを見に行ったのに自分の体調がヤバすぎて作品を楽しむ余裕などなかった。

今日はまだ頭で「この不安は脳みそのバグだぞ」って言い聞かせて落ち着かせられる余裕があった。


ツイッター、いやXなのか、で散々話題になっていたので、ストーリーは絶対見ないようにしつつも、その他のことはほぼ知っていた。「あ、キムタクの声だ。」「このアオサギが菅田将暉なのね」と。
またみんながわからないという話もしていることが多かった。今日も父に今から見にいくと言ったら、弟が見たけどよくわからなかったと言っていた話を聞いており、自分も理解できるのかとちょっとだけ不安な気持ちで見始めた。(大いにネタバレします)




戦争の話なのか、主人公の成長の物語なのかと考えを膨らませながらみる。
アオサギに連れられて塔の中に入って行った時から、世界がとびとびでよくわからないなと思い始めた。しかし死にかけのペリカンが主人公と話をした時、この物語において鳥たちが私たち人間なのだと思った。
ペリカンは、高く高く飛ぶことだけを望んでいるのに、いつも同じ場所に来てしまい、ワラワラの命を奪うしか他ないのだという。

何をどう頑張っても同じところに戻ってきてしまう感覚、そのことへの絶望
誰かの生と誰かの生が相反してしまうこと

知っている。この世界の話だと思った。

その後主人公はヒミと出会い、「現実」への世界へ戻る扉を見せてくれる。
他にもさまざまな扉がある。主人公がその前に出会ったキリコやヒミはそれぞれに違う世界に住んでいるが、「現実」の世界にもいる存在でもある。
この塔を作ったとされる大伯父はとても賢くたくさんの本を読んでいたと言った。
なるほど、人それぞれの世界を表してるのだと思った。


この前からふと、自分が自身を語るときに、いつも同じ過去の視点から話していることに気づいた。人は誰かのことを勝手に「こういう人」ってラベルをはり像を作るのと同じように自分自身に対しても「私はこういう人」というラベルを貼っている。しかし自分が自分につけたラベルを更新しないまま長い間過ごしてしまって、実際の自分とラベルがちぐはぐになってしまっているのではないか?と思うようになったのだ。
そんなことを考えていたら、とあるポッドキャストで「自分で自分の物語を決めてそれどうりに歩んでいる。それは書き換え可能なのに、勝手に自分で(例えばネガティブに自分は一生報われないなど)決めつけて、その通りを選んでしまうことあるよね。」という話をしていた。
確かにそうかもしれないと思った。その時から自分の描きたい道を描いていいのだよなって思うようになった。

この作品のいくつもの扉もまたその人その人の物語であるように思った。いや正確には扉の外が「現実」であり、塔の中が人それぞれの「物語」の世界なのだ。


大伯父は、きっと賢くて理想が高い人間だったのだと思う。現実世界の汚さに絶望し、現実を離れ自分だけの「物語」のなかに生きることにした。

主人公が世界は後どのくらい持つのか尋ねるシーンがある。大伯父は今にも倒れそうな積み木を見て「明日までは持つ」といった。
拍子抜けする答えだ。そんなに真剣そうに積み上げて守っているのに、たったの1日しか持たないとは。しかしこの「明日まで」という言葉が重く感じられた。

誰も先のことなんてわからないのだ。
2年のヨーロッパ生活を経て、現地で窓際においていた置物を同じように机に並び直したとき、久々に地震がある土地にいることに気がついた。ベルリンの感覚で机の端においてしまってはいつかくる地震で倒れるかもしれないと心配する必要がある国であること、「予期せぬこと」が常に生活の身近にあることがより鮮明に感じられた。


ヒミを連れて行くインコたち。
群衆が私たちもお供するというも大王が私の手柄だと美味しいところを持って行ってしまう。しかしそれをそのまま受け入れ賛美する群衆たち。
インコたちは日本人に見えた。馬鹿な市民たちとその王という形をかなり皮肉に描いているように思えた。
インコ大王は王としての有志を見せてやるとかいい、部下たちをおいて最後一人で主人公とヒミのあとを追う。

大伯父は、眞人に後を継いで欲しいという。ここにある積み木は悪意のないものだからこれを積んで世界を作れという。
大伯父は理想が高いあまりに清い人間であった。「現実」の汚さ、暗さに耐えられず「物語」の中で生きることを決めてしまう。だから彼の言葉はいつだってなんだか浮世離れしている。


この話を聞いていたインコ大老は、世界を司っている(はずだった)大伯父が実はガラクタかのような積み木で世を占っていたことに憤慨してしまったのだ。
やはりこの物語ではいつだって鳥が我々であるように感じられる。インコ大王にとって何か「真実」めいたものに思え、今まで信じてきたものはただのガラクタで、実態がなかった。そんな時人は怒り狂うだろう。


眞人は、自分の頭の怪我をさわり、僕はもう悪意を持っているからその積み木には触ることができないという。その代わりに「仲間を探す」という。

彼は一貫して「現実」を生きる選択をし続ける人であった。
そして作品としての物語も塔は崩壊し、父たちのいる「現実」へと戻っていく。


生きづらい世の中であると思う。汚れているとも思う。現実をありのまま直視し続けると心がもたなくなっていくような感覚がある。陰謀論が流行ってしまう世界だ。少し話が逸れているように思えるかもしれないが、「推し」という文化もまたこの汚れた社会だからこそ起きているのではないかと考える。
現実を見なくてもいい、理想の「物語」を求めてしまう。「物語」はいつでも救いになりうるのだ。そういえば宗教はいつでも「物語」と共にある。


私もまた自分で自分の思いたい「物語」を描いているように思う。デンマークにいき、桃源郷のような場所での生活をしてしまった。ベルリンにて自分の自己効力を取り戻し、少しは社会をよくできるのかもしれないと思ってしまった。
そのこと自体は悪いことではないが、あまりにも自分が思いたい「物語」を勝手に描いているのかもしれないと少し思うようになった。


どれほどつらくとも「現実」を生きねばならないのだと宮崎駿は言っている。
ヒミは火事で焼かれ死んでしまうとしても、「物語」の中で生きてはいけないのだ。


今の自分にすごくまっすぐ刺さる作品であった。
日本に帰ってきた時、というか帰る前から「現実」に戻るなという感覚があった。
デンマークの友達にそういうと「あなたはいつでも現実を生きているのだよ!」と言われた。そうだった、そのはずなのに。言葉がわからないこと、期限が決まっていること、文化が違うこと、自分と繋がりがある人やものが少なすぎること、いくらそこで生活していても海外生活はいつでも「夢の中」だったように思える。
特にヨーロッパはその街並みの綺麗さがそう思わせてしまうのかもしれない。
だから、この海外での生活を経た自分はまだどこか「物語」の中にいるような視点でいてしまう。夢を持つことや理想を持つことが悪いことではないのだとは思うのだけど、そこから「現実」を排除してしまってはいけないのだと知った。

一方で、先日のポッドキャストのように自分の持ちたい「物語」を持つことがいけないわけでもないと思う。
また少なくとも私はこの宮崎駿が作った「物語」に元気をもらえた。そうやって生きて行くことが「現実」を生きて行くことへの支えにもなる。


私はどう生きたいのか。

目の前にある時間をどう使っていくのか、
それがどう生きるかということなのだと思う。
何もすることがないように思えてしまう田舎でも、現実は続く。そしてきっとそれはそんなに悪いことでもない。





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