実家の片付けをして、両親の想いが全てわかってしまったような気がする

2021年、実家を売却するために、父と母の持ち物をひたすら片づけた。
ほとんどの物を捨てることになるのはわかっていながらも、ひとつひとつ手に取って、触れて、眺めたり、読んだり。このエプロン使ってたなぁとか、このペン使ってたなぁ、と思い出を思い出しながら、捨てることをためらいながら、でもありがとうと感謝して、処分していく。
その繰り返し。

営業職だった父の数千枚の名刺の束、カレンダーにびっしり書かれた仕事の予定、60代、70代でもお弁当を自分で作って働きつづけていた父の姿が思い浮かぶ。介護施設で今はゆっくりと過ごす父。身体を休めてのんびりしてほしいと思う。
亡くなるギリギリまで仕事をしていた母。どんどん収入が増えて、目標の月収に到達していた給与明細。仕事に情熱を燃やして、強く生きていた母の明るさを思い出す。

母の日記が過ぎた年月分、残っていた。
亡くなる前に母は
「日記を読んだら、私がどんな思いで生きてきたかわかるから、読んでほしい」と言っていたのを思い出して読んでみた。
私の成長のこと、母と娘の会話、子育てに奮闘して心配して、そして喜びがある姿が浮かぶ。
そして、父の暴言や暴力の内容がいくつも書かれていた。
父と結婚した経緯も書かれていた。
結婚への焦燥感と勢いと、迷いと覚悟と、本当は結婚したい人とはできなかったことと
いろんな思いを知ってしまった。


片付けていた物のなかに、私が幼い頃の様子を写したビデオテープが何本も出てきた。業者に頼んでDVDにダビングしてもらった。運動会、お遊戯会、ピアノの発表会、誕生日会、ディズニーランド、どれも楽しそう。
その中に家族団らんのようすが写されているものがあって、手巻き寿司を作って、食べていた。私は、4歳か5歳。父に手巻き寿司を作ってもらって食べていた。母も甲高い声で楽しそうに話していた。とても幸せそうなようすを見て、父の想いに気づいてしまったような気がした。

父が暴力的になり、不倫をし、母は嘆き、悲しみ、
そんな夫婦関係でも家族として暮らしていたのか

なんだか、わかってしまった気がした。
誰が悪いのかもよくわからなくなった。
父の暴力は、記憶にこびりついて、離れないけれど
父の悲しみと孤独を知ってしまったような気がする。

母の想いも、父の想いも
どうしようもないことだったのだろうな。
実家の片付けをして、私は父の想いと母の想いを受け取った。
ひとつひとつ手に取って、思いを受け取って、感謝して、捨てていく作業は、両親への淀んだ想いを許しに導いてくれる作業だった。

そして、昨年実家を売却した。

お父さん、お母さん、家族であり続けてくれて、ありがとう。
そして私自身の心と体へ、片付けよくがんばったね、おつかれさま。がんばってくれてありがとう。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?