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四十九日

華がいない生活に慣れることなんてないと思っていた。
でも、時は残酷なのかやさしいのか、少しずつ少しずつ華がいないことに
慣れはじめている。

華が逝ってしまった直後は、姿は見えないけれど、華はまちがいなく家にいた。だから、本当は華がいないことが不思議でたまらなかった。
前夜まで、というか、あの日の早朝までは元気だったのに急に逝ってしまったから信じられなかったんだと思う。
朝、目を覚ませば、華の居場所を確認したし(踏んづけたら怒られるからね)、出かけるまえは華のためにエアコンと電灯をつけようとした。
夜中に仕事をするときは、華を起こさないように静かに動いた。
そのたびに「ああ、華はもういないのか」と思ったっけ。

いまももちろん華のことは忘れていない。というか、ずっと華のことを思っているし、けっこう頻繁に泣いてもいる。
でも、たぶん華がいないことに慣れてきている。もうエアコンと電灯はつけないし、華のために静かに動いたりもしない。
なんというか……華がいたときの習慣が思わず出てしまうことがほとんどなくなった。
そうだな、夕方が近づくと「(華が待っているから)早く帰らなきゃ」と焦るのがまだ少し残っているくらい。

華を失った寂しさ、悲しさ、助けてやれなかった後悔や罪悪感は決してなくならないと思う。でも、胸がえぐられるような思いは薄れつつある。そうじゃないと生きていけないんだろう。
辛い気持ちが薄らぐのは楽なことだと思うけど、その一方でとても寂しい。まるで華が遠くにいってしまうみたいで。

明日は華の四十九日。
お骨は家にあるけれど、人間風(仏教風?)にいえば、四十九日がきたら華は亡母のもとに行くんだろうと、ぼんやりと思っていた。
でも、なんとなく華はもう母のもとに行ってしまった気がする。
いや、「そろそろ、ばーばのところに行くよ」と華が言っているのかな、そんな感じ。
気配が薄れている気がするから。

華が急死したとき、どうしても受け入れられなくて、混乱した気持ちを外に出すためにnoteのアカウントをつくった。
でも、結局はツイッターで少しつぶやくくらいで、まとめて書くことはしなかった。

でも、いま華がいない生活に慣れはじめていることで、改めてnoteに華のことを書こうと思った。
華をどこかに残しておきたいから。
どんなことを書くのかはわからないけど。

四十九日がきて、華が本当に母のところへ行くならいいな。
母は華を可愛がっていたし、華も母が好きだったから。
虹の橋とか、あの世とか、天国とか、わたしはそういうものを素直に信じられない捻くれた性格だけど、信じたいなとは思っている。
母と楽しく元気に散歩してくれる世界があるなら、華がそこに行ってくれるなら、おかーさんはどんなに寂しくてもかまわない。
がまんするよ。
華とばーばが幸せに過ごしてくれるなら、それでいい。

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