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そうか、もう君はいないのか

『そうか、もう君はいないのか』

華が逝ってまもなく、ふとこのタイトルを思い出した。

『そうか、もう君はいないのか』は城山三郎の手記。でも、本は読んでいなかったと思う(あとから読んだ)。タイトルを知っていたのは、田村正和が城山三郎役を演じたドラマを見たから、だと思う。でも「思う」と書いたとおり、田村正和が主役だったことと、亡妻をしのぶドラマだったんだろうというくらいで、内容は記憶にない。
それでも、このタイトルを思い出したということは、『そうか、もう君はいないのか』という言葉に、作者の痛切な思いを感じ取っていたのかもしれない。

華がいなくなって、何度も何度も「そうか、もう華はいないのか」と思い知らされた。別にこの本のタイトルをなぞっているわけではなく、何度も何度もそう思い知らされて、華がいない現実を突きつけられた(だから、このタイトルを思い出したんだね)。

朝起きて、卵をゆでて、果物を切って、華のお皿に手をのばして……そうか、もう華はいないのか。
出かけるとき、戸締りをして、カーテンをしめて、エアコンのリモコンを手に取って……そうか、もう華がいないからエアコンはつけなくていいのか。
書類を床に落として、あわててひろって……そうか、もう華がビリビリ破くことはないのか。
帰宅するとき、最後の角をまがって正面に見えるガラス戸に華の姿を探して……そうか、もう華はいないのか。
早朝トイレに起きて、廊下を歩くときにうんちがないかどうか目をこらして……そうか、もう華はいないのか(最近は時々粗相していた)。

もっともっと、ある。
華がいたときの習慣が、行動パターンが染みついていて、気づくともう必要ないことをやっては、華の不在を突きつけられた。
華がいないことが不思議でたまらなかった。

城山三郎も、奥さんが亡くなってそんな感じだったのだろうか。
奥さんと犬を比べたら怒られちゃうかもしれないけど。
でも、愛する存在であることは同じだから。

きょうは華の四十九日。
華がいない日常にも少しずつ慣れてきた。
まだ暗い早朝にトイレに起きても、うんちを気にせずに廊下を歩くようになった。
家に帰ってきたとき、暗がりのガラス戸に華の姿を探すこともなくなった。

でも、きのう。
久しぶりにYouTubeを見ながら体操をはじめたとき、「あ~、華がじゃましにこないといいけど」と思ってしまった。
リビングで体操すると、華はなぜか気に入らないらしく、いつも「変なことするの、やめて~」って怒ったよね。
で、おかーさんも「向こういって!」怒りかえしていた(笑)。
きのう「華がじゃましにこないといいけど」と思ったあと、また思い出した。
そうか、もう華はいないのか。

じゃましにきてもよかったのにな。

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