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このスキルはどこで役に立つ?

「無理にでも自分が間違っていると考えてみる」とある本を読んでいた時に見かけた言葉だ。「これが~には難しいらしく~」と本書は続いていたのだが、確かに自分を徹底的に疑うというのは簡単な事ではないなと思えた。

しかし色々な人と関わり、話すたびに私がモヤモヤを感じてしまうのは往々にして「自身を殆ど疑わず、その発言も顧みない」ようなタイプの人ばかりだった。

誰がどう見ても悪い人、正しくない人、過ちを犯した人、そんな人々を被弾する行為を目にする度に「私はこんな人間とは違う」「間違った物事を批判できる私は正しいのだ」とまるで自身の正しさを再確認している様で見ていていい気分ではなかった。

そんな事を考えているうちに「無理にでも自分が間違っていると考えてみる」という行為が難しいのは、私よりも上記の人々を指しているのではないかと思うようになった。

もちろん、ここで「そうに違いない」と自惚れる事が出来るなら、そもそも上記の人々に対してモヤモヤなど感じないと思うので自戒し続けなくてはならない。

しかし、そういった人々の発言や態度にモヤモヤを感じながらも“メタ認知”的なスキルを有していなければ、私も彼らと同じような言動を行っていただろうし、何より望んでこのスキルを入手した訳でもないので、そう考えると複雑な思いではある。

この世には抑うつリアリズム理論なるものが存在するらしく、内容としてはうつ病の人間ほど出来事の因果関係をより正確に把握できる一方、健康な人は、無意識に自分の才能、影響力、能力などを過大評価してしまっているという内容のものだ。

十分に立証された理論でないことはもちろんなのだが、健康な人間がある種の「色メガネ」をかけることによって、この世界の解像度を適度に落とし、心の健康を保っているのは間違いないと思う。

幸せな日々を送っている人間はそうでない人と比べて、いい意味で考える機会が少ないだろうし、そもそも自分を疑ったり、思考すること自体を好まないだろう。対して病や苦しみを抱える人間は、常に悩みの中にある事が少なくない。考えることを上手にやめることが出来ない状態だ。

結果、この世界の解像度を上げる事により物事を丁寧に観察する力は養われたかも知れない。しかしそれは本人が望んだことではなく、病や悩みの副産物として備わってしまった能力だろう。幸せに生きるためには寧ろ妨げとなる能力をわざわざ自分から得ようとする人など殆どいない。

物事をいろんな面から捉え、自分をしっかりと見つめることが良く生きるという事だとしても、それが本人の幸せになるのかと言えばそうでない事は少なくないだろう。そういった能力は別の能力との引き換えで合ったり、何か代償を支払わされてしまう可能性が高いからだ。

例えばいじめを経験した者は自身の存在そのものが「悪」であり「間違い」なのだから、自身を疑うスキルは嫌でも身につくだろう。そして客観的、相対的に物事を判断できるという事は自己肯定感を養い難いという事でもある。

私は生きていく上で「根拠のない自信」がとても大切だと思っている。何かに依拠した自信というのはそれを探すこと自体が難しかったり、入手するハードルが高かったりするのに対し「根拠のない自信」というのはそういった難易度の高い場所からわざわざ輸入してこなくとも、自身を支えてくれる存在だからだ。

しかし、そういった前向きな力を養う為には自身や物事を正確に捉えて判断する能力は邪魔になってきてしまう。どうしてもある程度物事や自分に対し“鈍感”でありながら世界の解像度を上げ過ぎない必要が出てくる。

私自身は徹底して自分を見つめていたり、物事を客観的に捉えられているとは思っていないのだが、少なくとも冒頭に書いた人々よりはそういった能力に恵まれているらしい。

こうした能力に恵まれたおかげで人から尊敬されることもなくはないのだが、それ以上に人とのコミュニケーションや価値観の共有には大きな障害となってしまっている事も少なくない。

しかし、この能力を失うことによって幸せになれるとしても私はこの能力を手放したりはしないだろう。それはまだ徹底的に絶望しきった訳でもなければ、世界の解像度をこれでもかというほどにクリアに出来た訳でもないからだ。

幸いなことに(?)私には学や知識と呼ばれているものが少なく、この能力故に深い絶望に至っている事は無い。逆にこの能力と高い知能を兼ね備えている人々が社会のバグや黒い部分を認知しやすく、絶望的な気分になっている所を見ると学のなさがセーフティーとして働いてくれている事は間違いなさそうだ。


__結局この中途半端なスキルは何処かで役に立つわけでもないのに、私の中に致命的な生きにくさとして存在し続けている。

一度気づいてしまった痛みに対して鈍感になるという事はとても難しい事のように思うので、それならばいっそこのスキルをできるところまで伸ばしてみたいのだが、現状のままではそれも難しいだろう。

私が冒頭の人々に対してモヤモヤを感じてしまうのは、おそらく私がまだそういった人々と同じ場所かその隣に存在しているからだ。何故かはわからないが人は少し前の自分の価値観や考え方をとても恥ずかしく感じるようにできているらしい。(中二病、黒歴史、などなど)

鈍感になることが難しいならばせめて、そういった人々との距離をさらに離せるほどには賢くありたいと思うし、そういった人々に対してモヤモヤを感じない道は今のところそれぐらいしかないと思っている。

自信のなさから、他人に対して自分の正しさを前に押し出すことが苦手な私としてはせめてこのスキルが生きにくさではなく、何かの役に立ってもらいたいと切に願っているのだが、自分自身が強くなれない限りこの中途半端なスキルがどこかで役に立つことはあまりなさそうだ。

おいしいご飯が食べたいです。