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「かわいさ」と「承認」への切望

近頃インターネットで遭遇する男性の中には草食系などという表現を軽く飛び越え、思わず庇護欲を刺激されてしまいそうになるぐらい“かわいい男性”を見かける機会が多くなった。

イラストや漫画など絵を描く事を生業としているクリエイター界隈からは、自身のイラストをアバターとし理想の女の子としてVR内で受肉する「バ美肉」(バーチャル美少女セルフ受肉の略)なる謎ワードまで出現した。わからない方の為に簡単に説明してしまえば「VRネカマ」である。(中身はおじさんなので)

しかし、ネカマと言ってもその「可愛さ」の評価はとてもシリアスなものだ。数ヶ月前には私の知人もVR界に美少女デビューを果たしたばかりで、この“バ美肉ブーム”と“かわいい男性”の出現についてネット上で様々なテキストを読ませてもらい、見識を深めさせてもらった。

なぜ男性性を脱色した“かわいい男性”がこんなにも出現したのか?今回は今までに学んできた事や、個人的視点での“かわいい男性”との出会い、経験、そして私自身の“ネカマ体験談“などを踏まえながらnoteを綴ってみようと思う。


「可愛い」という評価を受ける時

時代を少し遡り私の小学生時代、クラスメイトにK君といういじめっ子がいた。小柄な体型ながらも運動神経がよく、とにかく気の強い性格でグループ内で一番気の弱そうな子をターゲットにして揶揄うタイプのいじめっ子だった。

そんな彼はメンタル面や運動神経だけでなくビジュアル面にも恵まれ、その容姿はクラスの女子だけでなく、お母様方からの人気も高かったほどだ。

そんなK君をクラスの女の子達は時々「可愛い」「女の子みたい」といった表現で持て囃していた。そういった女子からの評価にK君もまんざらではなさそうに照れ笑いをしていたのを覚えている。

いじめっ子とスポーツ万能という男らしさを小学校低学年から発揮していたK君ですら「可愛い」という評価に対し心地よさを覚えていたのだ。この「可愛い」という評価に対して喜びを覚える気持ちは私自身も子供ながらにハッキリと記憶している。

今でこそただの冴えない男だが、小学校低学年時代には私も女の子から「可愛い」という評価をしてもらえることがあった。これは何とも表現しがたいのだが、本来男子なら備えることのできない特別な評価軸での評価を与えてもらったような感覚を覚える。

一昔前であれば、男子に対する「可愛い」という評価の価値観は全く異なったものだったかもしれない。しかし、少なくとも私が小学生の時分には既に男子に対する「可愛い」という評価は何か“特別”なものであり、ほとんどの男子はその評価を喜ばしく受け取っていた。


潜在的変身願望

今から半年ほど前、友人のS君に「今、バ美肉がとてもヤバい」ということを熱く語った事があった。その中で「恋声」(ピッチとフォルマントを弄ることにより自身の声を女声に変換することの出来るフリーソフト)の話をしていた時のことだ。

S君がふと思い出したように「そういえばNと3人でカラオケに行ったとき、よくボイスエフェクトの女声で遊んでたよね。」と言われ私は思わず目を見開いて「あぁ!」と叫んでしまった。

私が高校生の頃、友人たちと度々訪れていたお店のカラオケ機種にはボイスエフェクトという、声やピッチを落とすことで男性の声を表現したり、逆に上げることで女性の声を表現することができる機能が備わっていた。

私は友人たちとカラオケでそういった遊びに興じていたことをすっかり忘れていたのだが、S君の一言でそれを思い出すと同時に頭の中の歯車が何かと噛み合った音がした。

ボイスエフェクトの性能はそこまで良くなかったものの、通常の喋り声よりは遥かに高い音域で発声する歌声を変換していたため“女性っぽい歌声”としてはそこそこ聞けるものだった。

私たちは女声ボイスエフェクトに夢中なり“どの曲がより女性っぽく聞こえるか“や“誰が一番色っぽく艶やかに歌えるか”などを競って盛り上がっていた。男三人、花のないカラオケボックスの一室に「可愛い!」「エロい!」という歓声が飛び交う地獄のようなカラオケだったのだが本当に楽しかった。

友人たちとのカラオケで私は声だけでも「女性として認識される」事への喜びや興奮のようなものをハッキリと認識していた。それは私が昔から見ていた漫画やラノベ、アニメなどに登場する主人公が(女性に限りなく近い中性的な顔立ち)作中にて、なんやかんやで女装することになってしまい結果、周囲からとても好感を持たれる(ヒロインから「私より可愛い…」と言われたり、友人に本物の女性と勘違いされて告白されるなど)というお決まりのシーンを繰り返し体験していた事で「女性として認識される」という事の価値が高まっていたからかもしれない。

漫画、ラノベ、アニメなどの作品内において「男性でありながら中性的な顔立ちが好まれ評価される」という文化の起源はおそらく少女漫画ではないだろうか?それと、昨今の男性タレントや俳優の容姿について白饅頭こと御田寺圭さんのnoteのから一文を引用させてもらう。

少し前の映画を観ると、20代30代にして、もはや40~50代の貫録を備えた風貌の男たちが目立つが、いまの若手俳優たちは、40歳代なのに肌がツルツルしていて、まるで20代前半のような幼さを備えていることも珍しくはない。 いかにもな男臭さや男としての迫力といったものよりも「ペットのような無害さ」こそが女性たちに望まれていることを如実に反映している。その点でいえば、少女漫画に登場する男性たちがみな、シャープで女性的な容姿をしていたのは(そもそもの画風がそのようなトレンドを保ってきたというのを差し引いても)、相当に早い段階で「男性のもつ暴力性」を捨象した姿を理想化してきたともいえる。

特にビジュアル面において女性に好まれる「男性アイドル」などを想像してもらえればわかりやすいと思うが、顔立ちが整っているのはもちろん、皆一様に中性的な顔立ち、容姿であることが少なくないだろう。

そして今日では、少年漫画や少女漫画などの作品、俳優だけでなくインターネット上で出会う一般人にも、こうした男としての迫力のようなものを捨て去った人々を見ることが出来る。

それはまさしく「ペットのような無害さ」が女性に好まれるのは勿論、男性として生きていくこと、もっと言えば「男性として存在すること」自体のハードルが高くなってきているという事の裏返しではないだろうか。


ネカマなりきり体験談

ここまでのエモーショナルな文章でバレてしまっている可能性は高いが、私はおよそ8年近くTwitter上で「ネカマ」と呼ばれている行為を続けている。

それも、既存の女性キャラクターとして振舞ういわゆる「なりきり」というジャンルにおいてのネカマだ。

なりきりとは、インターネットの掲示板やチャット、メールなどを使って、既存の漫画、アニメ、ゲームやまたは全くのオリジナルに設定された世界のキャラクターや、実在の有名人、動物などになりきって、レスや会話を楽しむことである。 ウィキペディア

Twitter上でなりきりアカウントを初めてスタートした時、フォロワーが見る見るうちに増えていった時の高揚感は今でも覚えている。私が通常アカウントで男性としてどれだけ呟いても見向きもされなかった言葉がフォロワーに拡散され、すぐにリプが飛んできた。

あっという間にフォロワーは1000人を突破し、通常アカウントではまずありえないであろう女性から声をかけてもらえることも度々あった。こんな冴えない男性である私でも「女性キャラクター」というアバターを介することによって沢山の人から承認を受け取ることが出来たのだ。

ここからの話は非常に語ることが憚られるのだが…私はDMなどを利用して仲良くなったフォロワーに「メンタルが弱い事」「生活が苦しい事」を打ち明けるとamazonギフト券などを頂いて生活の足しにしていた。

実は今こうして文章を入力しているノートパソコンもなりきり時代にフォロワーから購入して頂いたモノである。中身はこんな冴えない男性なのに…そうとは知らずに「女性」として振舞う私に尽くしてくれたのだ。

私に尽くしてくれたフォロワーの方々も決して生活は楽ではなかったのに、身銭を削ってくれたことがとても心苦しくなってしまった。あまりに非道な話だと思うのだが、ここで注目して欲しいのは私がTwitter上で「男性」として振舞う時と「女性」として振舞う時の非対称性である。

今でも男性として呟く時にはリプをもらう事すらほとんどないのだが、なりきりとはいえ「女性」としてインターネット上で振舞うだけでここまで承認され、金銭的な支援すら受けとれる事があるのだ。

2次元の「女性キャラクター」として振舞うという事が寧ろ、3次元の女性として振舞う事よりも刺さった方は沢山いたかもしれない。しかし、金銭的な支援をしてくださった方に限定して言えば、なりきりアカウントの背後には「3次元の女性」のを見ていたし、私も「女性キャラになりきる女性」を演じていた。

女性から声をかけてもらえたのも、Twitterのアカウントを介することにより私のもつ「男性性」が脱色されていたからだろう。「可愛らしいアイコン」「女性としてのツイート内容」には男性的な表現は一切出していなかったし、女性からも安心して声をかけることが出来たのだと思われる。

当時の私はまだ男性であることの苦悩や、女性として振舞うことで承認されやすくなる事などほとんど意識していなかったのだが、従来の「男らしさ」という価値観が時代とともに少しずつ移り変わることによって、それに気づかされる事となった。


「かわいい」に憧れる男性の苦悩

「男らしさ」という価値観が時代とともに変わりつつある。という言葉で前章を締めくくらせてもらったが、これは具体的には何度も繰り返している、男性でありながら「男性性を脱色」しなければならないという事だ。

しかし「男性性」を全て捨て去ればいいのかと言うと、そういう事でもない。「男性性」の中でも有害な部分(加害性、暴力性、男臭さなど)だけを捨て去り、有益な部分(稼ぎ、甲斐性、競争心など)は残さなければならない。有益な男らしさまで捨て去ってしまった弱いだけの男性はその存在を認識されるかも怪しくなってしまうからだ。

私はネット上で出会う“かわいい男性”もしくは“かわいいに憧れる男性”に「男性として認識されない弱い男性」の姿を見てきた。“かわいい男性” “かわいいに憧れる男性”は共に何かしらの「障害」や「病気」「生きづらさ」などを抱えている人があまりにも多かったからだ。

メンタルの弱さや、生きていくことに何らかの困難を抱えている時、「男性」という存在のままその苦しみを理解してもらえたり、誰かから支えてもらえたりすることは非常に難しい。

性別やビジュアル面からも庇護欲を刺激されるような人がほとんどいないのは勿論、歳を重ねておっさんになってしまえばその人の持つ“弱さ”や“苦しみ”などは「自己責任」として処理されてしまう可能性も高い。

人には「救われてほしい」「助けてあげたい」という欲求を刺激される存在に対して絶対的な価値見出し、そうでないものに対しては相対的な価値判断を下してしまうという認知バイアスがある。

“かわいい男性”もしくは“かわいいに憧れる男性”なら本能で理解している方も少なくないだろう。苦しみを抱えた弱い存在では誰からも相手にはしてもらえず、かといって現状を自分の力で打破できるほどの「男らしさ」も持ち合わせていない…ならば「男性らしく」あることを捨てて「女性らしく」「可愛く」振舞う方にインセンティブが働いても何ら不思議ではない。

もっとポジティブに自身の「可愛さ」を楽しんでいる方も少なくないだろうが、私はネット上で出会ってきた“かわいい男性” “かわいいに憧れる男性”の特性や、自身の「ネカマ」体験から、可愛らしく振舞うということが弱さに苦しむ男性への「救済」という側面が強いのではないかと思っている。

「ただ弱いだけの男性」から「思わず守ってあげたくなってしまうほど可愛い男性」にクラスチェンジすることによって彼らは、今まででは手に入らなかった「承認」や「繋がり」を得ることに成功したのではないだろうか?



__今回のnoteでは、生きづらさや弱さを抱えた男性が「可愛い」や「女性らしさ」手に入れることで事で、自身の現状を変えることが出来るのではないか?という事が大きなテーマとなっていた。

しかし、男性でありながら女性的な容姿を手に入れられる人間などリアルではほとんど限られているだろう。自身のビジュアルに恵まれていないという事は男女問わず生きづらさの根源であることは間違いない。

本編では“かわいい男性”にスポットを当てがちだったが、当然“かわいいに憧れる男性”の方が前者の数を圧倒的上回る。男らしくはなくとも容姿にある程度恵まれているならば「承認」という面において、その生きづらさは大きく変わってくるだろう。

“かわいいに憧れる男性”とは言ってしまえば“可愛くなれない男性”でもある。しかし、自身の容姿にあまり恵まれなかった男性でも「可愛い」への憧れから女性らしい歌声や女声スキルを習得していたりすることは珍しくない。

自分が理想とする美少女アバターを身にまとう事の出来るVR空間が存在する事や「バ美肉おじさん」の流行を考えると、ナチュラルな「女声」や「女性らしい仕草」などが単品でも需要の高まりを見せたのは当然かもしれない。

流行とはいえ、ハイエンドなパソコンを持っていない家庭や流行のガジェットにそこまで興味関心のない方からすれば、きっと別世界で起きている出来事だろう。私も今現在VRに関する機材は何一つ持ち合わせていない。

願わくばこの肉体を捨て去り一億総アバター時代の到来と共に、生まれ持った「容姿」故の苦しみなど、男女共に無くなって欲しいと思っている。

見た目による生き辛さが解消された先には、新しい別の「生き辛さ」が現れることになるのだろう。しかし、好まれる振舞いや容姿などの価値観が時代と共に変化していく事に全ての人間が対応することも難しい。

時代に取り残されそうになってしまっている私を含めた多くの人々にとって世界を一新させてくれるVRの様な技術はもちろんだが、そういった文化に疎い人々にも届くセーフティーネットになる様な存在がバーチャル、リアルを問わずに現れてくれることを願うばかりだ。

おいしいご飯が食べたいです。