【連載小説】第3話 白山の蛇 #創作大賞2024#ファンタジー小説部門
第3話 (約3800字)
空気の触れる肩口が寒く、目が覚める。どうやら朝日はとうに上っているらしい。昨日の女はいない。俺は着物に袖を通すと、気配を探ってから板戸を開く。すでに朝餉と火鉢用の炭が届いていた。
部屋へ持ち帰り黙々と食す。滋養の有りそうな豪華な食事だ。不摂生の俺が随分と健康になりそうだと、ひとり笑う。
膳を部屋の外へ置き、俺はそのまま外へ出た。外は晴れているが、足元にはうっすらと雪が見える。この程度ならもう少し日が高くなれば溶けるだろう。肩をすくめ、歩き出す。
御堂家とは比べものにならないほど、人気があった。だが、つくりとしては巨大な家に近い。一か所に数名ずつが集まり共同作業をしていた。畑を世話し、鶏を飼い、獣の皮をなめし、武具の手入れをする。幼子はそれぞれに遊び、子どもは勉学に励んでいる。
俺が通りかかると、誰もが手を止め俺を無遠慮に見つめる。近づいてくる者もいなければ、話しかける者もいない。正直なところ、西園寺の男には敵意を向けられるのではと危惧していた。近親相姦が常の家なのだ。外部の男を恨んでもおかしくはない。だが、どの若者も俺を無感動に見つめるのみだ。彌津智の「客人としてもてなせ」というのが効いているのかもしれない。
一日経ってもこの同じような顔と目にはなれない。俺は自然と早歩きになりながら敷地内を一周する。
部屋の裏手へ回った時、鮮やかな緋色が目に留まる。濃く肉厚の緑の葉に、雪を被った椿。俺は思わず近寄り、そっと雪を払う。
白っぽい空に、白く染められた地面、俺を見つめる白い顔に、知らず息を詰めていた。それを生命力のある鮮やかな緑と緋色が、自然へと戻してくれるようだった。この非日常の中で、俺の知るものがある。そのことに、ここまでの安心感を得るとは思っていなかった。
「椿がお好きですか」
控え目な声が後ろからかかる。振り向くと一人の女が立っていた。襷で袖を上げ細く白い腕をさらしている。その腕が海老茶色の前掛けを持ち上げ軽く手を拭く。黒髪は下の方でまとめ、薄紫の組み紐が揺れる。目が合うと泣き黒子のある目元で柔らかく微笑んだ。その微笑みに俺は胡蝶を思い出す。
「ああ。この敷地は白すぎて、鮮やかな色を見ると落ち着く」
「そうですか」
彼女は間違いなく西園寺の顔だ。だが感情を見せるだけでこんなにも印象が違うのだろうか。まるで普通の人のように見える。
「冬は花が少なくて寂しい季節ですから、赤い椿に心を惹かれるのでしょう」
彼女は話しながら俺の隣に並び、椿を眺める。俺はその横顔を盗み見る。
隙だらけだ。体格差もある。澪、彌津智、衣鶴と近距離で接したが、誰もが警戒心を解かなかった。衣鶴に至っては行為中であっても気が抜けず、常に首を絞められているような脅威を感じていたほどだ。
視線に気づいたのか、俺の顔を見上げ少し心配そうな顔で首を傾げる。
「仁雅様。お食事はお口に合いますでしょうか」
「ああ。美味しくいただいている」
「それは良かったです」
彼女は安心したように息を吐く。
「外の方がどのようなものを召し上がられているのか存じ上げず、少々不安に思っておりました」
「お前が作ってくれているのか」
「はい」
「そこらの飯屋よりもよっぽど旨い。料亭並みに豪華だしな」
めしや、と小さく呟き、少し困ったような顔で俺を見上げる。
「申し訳ありません。私は外に出たことが無いもので。褒めてくださっていると思ってよろしいのでしょうか」
思わず彼女の目を凝視する。彼女は視線を避けるように目を逸らし、あかぎれのある手の甲をもう一方の手で隠すように包む。俺は我に返り、返答する。
「勿論、褒めている。一度もここを出たことが無いのか? 何故?」
「私は、この歳になっても顕現していないのです」
「顕現とは?」
今度は彼女が俺を見つめる番だった。俺の目をのぞき込み、本気で訊ねていることがわかると、ええと、と呟く。
「念が具現化することです。非常に強い感情を持って意識すると、形を成すのです。良い感情でも悪い感情でも起こりますが、通例は十八歳までに起こるとされております。私は今年で二十歳ですので」
おそらく西園寺の中では恥ずかしいことなのだろう。次第に声が小さくなる。
「流石は西園寺だな。最初からそんなに高難易度のことを求めるのか」
彼女は椿を見つめたまま、俺の声に耳を寄せる。
「御堂はまず符の書き方から指南される。続いて手印や儀礼。最初は念がこもらなくても形式を覚えることで次第に中身が伴っていく。逆にそういう感覚的なことはなかなか教わりようが無いんじゃないのか」
彼女は口を開けたまま、俺を見つめていた。他の方法があることを、今まで考えたこともなかったのだろう。話を聞くまで俺も御堂のやり方が普通だと思っていたのだ。
「そう、なのですね」
彼女はそのまま押し黙る。
しばしの沈黙。俺は悩んだ末、懐から符を取り出す。
「参考になるかわからないが一枚やろう。そう強力な符ではないが、軽い穢気くらいなら祓える。書いてみるのも良いし、この符に念を込めてみるのも良い」
彼女は驚いたように、符と俺を交互に見つめる。両手で符を大切そうに受け取ると、花が開くように笑った。
「ありがとうございます」
思わず見惚れてしまい、軽く咳をする。
「名は何という」
「紫乃と申します」
「紫乃」
「はい」
「また、ここに来たら会えるだろうか」
「はい。今と同じ頃に、椿の前で」
お辞儀をする彼女を背に部屋へと戻った。
湯浴みをして夕餉を取ると、部屋を温めただ待つ。
やがて戸がゆっくりと開いた。二十代半ばといったところだろうか。黒髪の長髪に白い顔。西園寺の顔だ。
無言で部屋へ入ると後ろ手に戸を閉める。
「昨日とは違うのか。名は?」
立ったままの女に、俺は座ったまま問う。
「お前の呼んでいい名など持ち合わせていない」
呻るように答え、決心したように近づいてくる。二歩手前で立ち止まる彼女を見上げ、軽く笑む。
「たとえ心が無くとも、一夜限りのかりそめの間柄でも、同じ褥を共にするのだ。たとえ偽りでも名を呼びたい」
彼女の目が泳ぐ。逡巡後、放り投げるように言葉を放つ。
「清螺」
俺はゆっくりと立ち上がり、彼女の前に立つ。彼女の身体に警戒心が走るのが分かる。
「清螺」
絹のような黒髪をすくい上げると、腰を折りそっと口付ける。
俺は胡蝶のことを考えていた。彼女はどんな客にも微笑み、相手を労り、心地良い時を過ごさせてくれる。彼女は廓の中で。俺はこの離れの中で。
見上げた視線が彼女のそれとぶつかる。俺は安心させるように微笑んで見せた。
目が覚めるとまた朝日の上った後だった。どうやら寝ぼけ癖がついているらしい。体力的な疲労よりも気疲れの方が大きい気もする。
着物を整えると、板戸を開く。すでに朝餉の膳と、一輪挿しに入った椿があった。鮮やかな三葉と緋色の蕾。花が開くように微笑む紫乃の顔を思い出す。紫乃の泣き黒子から胡蝶を思い出す。
室内で朝餉を食しながら、昨夜のことを反芻する。
夜伽の最中、胡蝶のことを考えていた。俺は任務の後、ほぼ必ず彼女のもとへ行った。
ただ駒として現地へ赴き、依頼されたことだけを行い去る。依頼以上のことをしたとしても、同様。穢れは瞬く間に広がり、新たな依頼が届く。不毛だ。どんなに尽くしてもこの世は何も変わらない。
任務後の虚しさを胡蝶にぶつけた。本能のまま、欲望のままに抱けばその間だけ何も考えなくて済む。その間だけ俺は解放されるのだ。この呪われた血統を忘れ、ただの男として振舞える。そんな暴力的な感情をぶつける俺を、彼女は受け止めてくれた。何も聞かず、俺のしたいようにさせてくれた。あの懐の広さに、俺は甘えていた。
彼女は生業として俺と相対していた。そこには三文芝居のような疑似的な恋愛も無い。
俺は彼女の生業について深く考えることもしなかった。だが俺は今、彼女の立場だ。西園寺は疑似的な恋愛を望んでいない。俺は生業として女たちと接するのだ。
戸を叩く音がして、俺は返事をする。板戸を開いたのは澪だった。
「仁雅。昨日は顔を出せず悪かった。困り事は無いか」
布で隠された口元から低く通る声がする。
「ああ」
俺は箸を置き、答える。
彼女は部屋に入り、俺の座る横に厚手の羽織を置く。
「不要かもしれないが羽織を渡しておく。外を出歩くならそれでは寒いだろう。火鉢の炭は足りているか」
「助かる。炭も今日の分は足りている。明日には無くなるだろう」
「承知した」
火鉢を見やりながら答える俺の言葉に、小さく頷く。
「それは、椿か」
膳のそばに置いた一輪挿しに目を止める。
「ああ。この裏手にある椿だな。朝餉とともに置いてあった」
「そうか。花はいいな。心が穏やかになる」
彼女はわずかに目を細める。その様子を見て、ふと口を開く。
「澪。相談だが、香は用意できるだろうか」
「香」
手を口元に添え、呟く。
「俺はその手のものに詳しくはないから具体的にはわからない。が、気持ちの安らぐものが良い。照明ももう少し暗い方が良いのかもしれない。まあ、訪れる相手が異なれば趣味も異なるだろうから一概には言えないが。いずれにせよ、望んでここへ来るわけではないのだろうから、少しでも安らげるようにしたい」
「承知した。検討しよう」
口元に添えた手を下ろし、頷く。そして俺を見て、穏やかに微笑んだ。
「山狗の子が人の子で良かった」
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