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社会人1周年記念エッセイ「ココはとうきょう。」②

こちらの続きです。

社会人1周年記念エッセイ
「ココはとうきょう。」①

土曜日の朝、なんとか起き上がった午前10時のからだに、やわらかめの日光を浴びせてみる。
23年も生きていれば、自分のからだが何をすれば喜んでくれるかはよく分かっている。

平日は無駄に油っぽいものを欲するけれど、なんとなく土曜の買い物カゴには、パプリカとえりんぎが似合っている。

心地いい運動の手段がなくて、ジムに通いはじめてみた。あくまで妥協策としてもジムは、思ったより悪くはないけれど、どうにも好きにはなれない。

代官山の蔦屋書店も、渋谷のBunkamuraの美術展も、本来きっと好きな場所のはずなのに、人が多すぎるせいで嫌になる。

わざわざお台場までいって海沿いのベンチに座るのは、せめてもの抵抗だ。

「それぞれ人には適切な自然との接触量があるのではないか」と気づいたのは東京にきて日も浅い頃だった。

ここでいう「自然」というのは、森とか空とか海とか、分かりやすく自然なもの、の他にも
港とかレンガとか提灯みたいな、人口物だけど温もりがあるもの、も人によっては含むかもしれない。

自然が大好きな人もいれば、都会が好きな人もいる、といえば、それまでの話だけれど、

あまりに自分の心地いい範囲から外れてしまうと、すごく息苦しい。

まず、東京には川がなかった。
いやあるのだけれど(例えば多摩川とか隅田川とか)、京都生まれ京都育ちの人間からすれば、川といえば鴨川みたいなものを指すのであって、東京の太すぎたり、街から隔離されたあの川たちは、川ではない。なんというか、生活からかけ離れすぎている。

同じように神社とか寺がそうで、アクセスが悪いし無駄にでかくて数がすくない。神社とか寺というのは、わざわざ休みの日にでかけていく場所ではなくて、帰り道になんとなく通るぐらいの場所であってほしい。

それぞれ人には好ましい自然との接触量があって、好ましい自然の形があって、六本木ヒルズの中で一生生活できる人もいれば、自然と一定量定期的に戯れないと苦しくなるゾという人もいる。

その前提で東京をみたとき、よくもみんなこんなところで生きていけるな、と思う。
全国のひとたちが大人になってから集まるこの場所が、こんなにも自然へのアクセシビリディー低めでちょっとびっくりする。

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