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2022年の振り返り、あるいは「出会うこと」について。

もうすっかり地元と化した、西新井で迎える3度目の冬。行きつけのお店が増えて、土日の楽しみが増えた。「街が肌に馴染む」感覚。もう少しだけ暮らしたいと思う。

インスタ映えのためのカフェ
西新井の宝、堀田湯
激安焼き鳥屋
激安八百屋

年明け早々館山に行った。冬になると海がみたくなる。たいてい旅が好きな人間は、毎回新しい土地を冒険したくなるものだ。館山はそんな人間が毎年来たくなる不思議な力を持っている。

棒を振り回しても怒られない

22年2月22日。2年の記念のお祝いをダブルピースで。

こたつは必需品



何かを失う春。桜はいつも僕たちを救ってくれる。

メタバース?ブロックチェーン?web3?
最高に刺激的な世界に一瞬にして吸い寄せられた。何かしないと取り残されそうで、Blenderで3DCGをやった。すぐに飽きた。

デジタルにはまった反動で野菜作りをはじめた。やっぱり自然最高。すぐに飽きた。

たくさんとれた。あまりおいしくはなかった。

2回目の富士山。

雲の白、空の青。足元の富士は黒


登山はすごい。自然はすごい。大きな大地の中では自分も友達もみんなちっぽけだった。昔行ったオーストラリアの海も、北海道の丘も僕のちいささを思い知らせる装置だ。この肥大化しすぎた自我にはそれぐらいがちょうどいい。

でも、この夏の彼の急な死は、ちいさいはずの命が、ある人にとってはいかに大きいのかを教えてくれた。
離れるとか、失うとか、無くなるとか。自然がいかに大きくとも、自分の存在がいかにちいささくとも、目の前のちいさな火は僕にとって、とてもとても大きいのだ。

かたりあひて 尽しゝ人は 先立ちぬ 
今より後の 世をいかにせむ
国葬儀 菅義偉氏弔辞にて 
岡義武『山縣有朋』より

目の前のちいさな火を手放してしまいそうになるちいさな自分を、もう少しだけ奮い立たせて大きな自然に立ち向かう過程こそ、生なのだと感じる。

餃子はわたしたちの良心

そういえば、一時期熱を持って考えていた多様性とかいうやつにはそろそろ疲れた。真の多様性の実現は、共生ではなく無関心なのではないか。これは強者のエゴなのだろうか。もうあなたと分かりあうことを諦めて、あの人たちと村にとじこもりたい。

同志社ではしきりに「良心」という言葉を耳にする。良心とは寛容であって、実は愛ではないのではないか。与えることよりも、何も与えないことでしか成せない世界があるのでないか。

エーリッヒフロムの『愛するということ』では、愛は技術だと語られる。技術をもたない多数の人間によって、この不寛容な社会はつくられてしまうのではないか。だから僕は村を作りたい。なるべく寛容で塗り固めた村を。

ベストフレンドの結婚式。
他人をこんなに祝福したのははじめてだった。

11月。ベストフレンドの披露宴で友人代表のスピーチをした。そんな柄じゃないのに。これを「頼まれたから仕方なく」ではなく、「心からやりたい」と思えたのは他でもない彼の死と菅義偉氏の弔辞のおかげだった。言葉がこんなにも力を持つことに僕は魅せられてしまった。雄弁でなくても思いは伝えられるのだと思った。

スピーチをする人の必読本。結婚式3日前に読んで1から原稿を書き直した。

笠間で出会ったパン屋

美味しいご飯も、豪華な結婚式も、スマホゲームも。全部脳みそが喜んでしまうんだから仕方がない。ドーパミン?アドレナリン?もうなんでもいい。脳には抗えない。

でもこれを繰り返した脳は毎年少しずつ疲れてきているような気がする。刺激で満たすことで逆に無になるような感覚。これでいいんだけど、明らかに健康ではなさそう。じゃあ、高校生の脳に戻れば健康なのか。小学生なら健康なのか。僕の場合はきっとそうではない。だから、別にこのままでいい。

大切にしたいことの1つに「出会うこと」がある。必要なときに、必要な言葉や人や景色に出会う。奇跡的なタイミングと自分の気付く力がそろって為せること。だから刺激に溢れても感受を止めてはならないと思う。必要なときに必要なものが、僕の横を通り過ぎていかないように。
だから、やっぱり出会いは偶然じゃない。

あの日のハンバーグは400g

今年もたくさんの神様の前で手を合わせた。でも決して何かを祈ることはしない。
今年もまた出会うべきものにちゃんと出会えた自分を祝福をして手を合わせる。目を開くと、そこにはちゃんと、たしかに、自分の両手が重なり合っている。

富士山頂の鳥居

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