宇宙は無限にある?
最近の物理論では、宇宙はたくさん(あるいは無限に)あるというのが大勢らしい。多元宇宙(マルチバース)というのだそうだ。古くはエベレットの多世界解釈(分岐による並行宇宙)というのもあった。
私は昔から宇宙は無限にあると思っている。
それは私たちの3次元空間を考えればごく自然なことだ。3次元空間では縦、横、高さの3つの物理的尺度があり、私たちはそれらを認識できる空間で生きている。3次元空間には部分空間として2次元空間がある。縦と横の2つの尺度だけの世界だ。それは何かと言えば平面であり曲面の世界だ。つまり面の世界だ。2次元空間に生きている生物がいるとして、彼らの宇宙はいくつあるだろう。それは3次元空間の中に面は無数に取れるので、無限ということになる。面は高さがないので、我々3次元空間の生き物が2次元空間を見ることはできない。逆に2次元空間の生き物は、知らない尺度がある3次元空間がどんなものかを想像することさえできない。2次元空間同士の生き物は、別の宇宙である他の2次元空間(つまり面)を見ることはできない。面と面が交わっているところで(2次元宇宙が交差しているところで)何が起きているかは不明だ。何らかの物理的干渉が生じているかもしれないし、何も起きてないかもしれない。。
同様に2次元空間には部分空間として1次元空間(線の世界)があり、同様の議論ができる。つまり2次元空間の中で1次元空間(つまり直線や曲線)は無数にとれる。1次元空間の中で生きている生物が同様にいるかも知れない。3次元空間の私たちは(あるいは2次元空間の生き物からも)、1次元空間は見えないし、1次元空間の生き物は尺度が多数ある2次元空間や3次元空間を想像することさえできない。
この考えを拡張すると、縦、横、高さ以外の何らかの物理的尺度が加わった4次元空間があってもおかしくない。前述の部分空間の考えを適用すると、4次元空間の中で3次元空間は無数に取れる。つまり私たちの宇宙は無限にあることになる。上と同様の議論で他の宇宙を我々は見ることができない。宇宙が交差しているところで何が起きているのかは分からない。干渉が起きていてブラックホールがあるのかも知れないし、ダークエネルギーが発生しているのかも知れない。我々は物理的尺度が一つ増えた4次元空間を想像することはできない。4次元空間の生き物は、尺度が一つ減っている3次元空間の我々の宇宙を見ることはできない。
同様に考えると、高次元空間の中に一つ次元の少ない空間が無限にあり、その中の一つの空間の中にまた次元が一つ少ない空間が無限にあるということで、無限個の繰り返しということになる。
統一理論(一般相対論と量子力学の統合)の有力候補と言われている超弦理論では、空間は9次元と言われている(時間を入れて10次元)。超弦理論を一般化したM理論では、空間は10次元と言われている(時間を入れて11次元)。M理論を提唱したウイッテンは1990年に数学のフィールズ賞(弦理論への数学の導入などの功績)を、2014年に京都賞を受賞している。
超弦理論では、我々の宇宙は余剰次元(4次元目の尺度?)に沿って存在する3次元の膜(ブレーン)のようなものだと言う(ブレーンワールドと言う)。だとしたらブレーンは無数にとれるだろうから、宇宙は無限に存在することになる。これは私の部分空間の考えに似ている。ブレーン同士の交流はできないみたいだが、重力だけは伝播できるらしい。同様な考えで5次元目の尺度に沿って4次元の膜(ブレーン)がまた無数に存在するのではないか? ここでも重力だけは次元を超えて伝播できるらしい。これら重力の伝播がダークエネルギーなのかもしれない。いずれにしても我々の宇宙は無限個の繰り返しであり、何がどうなっているのか想像すらできない。とにかく無限個あることだけは容易に想像できる。
しかし宇宙が無限にあっても、最終的にはひとつの不思議な考えに戻ってくる。我々3次元空間の生き物は2次元や1次元空間を見ることはできない。つまり彼らの宇宙が仮にあったにせよ観測することはできない。同様に我々の宇宙が無限にあったとしても、4次元空間の生き物は我々を観測することはできないし、我々も他の宇宙を見ることはできない。同様の考えで、それぞれの次元には無数の宇宙があるかもしれないけど、お互いに観測することはできないことになる。観測できないというのは存在しないに等しい。自分が住んでいる宇宙のみ観測できるということになる。観測もできないし移動も通信もできないのであれば他の宇宙のことはどうでもよく、結局我々は今の人生を喜怒哀楽を持って生きそして死んでいくしかない。それ以外に何のやりようもないということになる。宇宙が無限にあるというのは壮大で勇気を持たせるが、最後は一つの現実の世界に戻るということだ。
宇宙の構造は神のみぞ知る世界かもしれないが、まだ希望はある。量子力学では見てないときは、事象は(雲のような)モヤの世界と言うから(たとえば電子の動き)、朝起きたら景色が変わっているかもしれない。般若心経(はんにゃしんぎょう)も、空即是色(くうそくぜしき)、色即是空(しきそくぜくう)と言っている。観測されていない時はモヤ(空)の世界であり、観測された瞬間に一つの実体(色)が決まる(空即是色)。逆に一つの実体(色)にいても、観測されなくなった瞬間にそれはモヤ(空)になる(色即是空)。つまりモヤ(空)と実体(色)は表裏一体で、双方向に遷移し合うと言うことだ(観測で決まるを仮定する−コペンハーゲン解釈)。あるいはモヤ(空)と実体(色)は共存しているとも言える(観測で決まるを仮定しない−非コペンハーゲン解釈)。ニールス・ボーアが東洋思想に興味を持ったわけだ。モヤ(空)は無限の可能性の重ね合わせの状態なので(自分も含めて)、運が良ければ目を開けた瞬間に自分も変身していて、景色も大当たりを引いているかもしれない。モヤと実体が共存しているとすれば、目を開けたままでも確率的に大当たりを引くかもしれない。確率の世界を渡り歩いているということだ。エベレットの多世界解釈流に言うと、違う選択をした自分がいる別の世界もあるということだ。選択のたびに世界が分岐していき、無限種類の自分の世界が同時進行していくことになる。途中で別の世界に移動したりはできない。自分が選択した世界を突き進んで行くということになる。これは各個人についても言えるので、みんな違った景色を突き進んでいるのかもしれない。自分の見ている世界は自分が主役で、他の人は配役だとも言える(手ごわい配役だが)。
自然を完璧に解明するのは不可能のように見える。自然の産物である人間の思考が自然を超えられるとは思えない。数学で言う群のようなもので、有限個の元から生成された群は自分自身を超えることはできない。
不可解さのすべての根源は、我々が3次元空間の中に閉じ込められていることによる。