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アクリル板の時代

エッセイ
テーマ『アクリル板』

親しき仲にもアクリル板ありの時代になってから三年ほど経った。
世の中はマスクを外す傾向に向かいつつあるけれど、顔を半分隠すことが当たり前になった世の中において、さっさと取れる人は少ないように思う。周りでも今さら口元を晒すのが恥ずかしいという声が多い。
僕としては、体調を崩すことが急激に減ったし、花粉症の季節になる前から着けていることで症状が軽減されると分かったので、今しばらくは外さずに暮らしたいと思っている。
そんな風に、パンデミックは僕らの生活を変えていき、変わってしまったものが、継続的に変わり続けたままのほうがよかったりもする。

例えば、体温を測る回数がやたらと増えた。出勤前には必ず体温計を挟むようにしているし、出先で入店する時なんかも大抵、手首かおでこを差し出すことが多い。
自分の平熱は36.8℃くらいだと思っていたのだけれど、年齢と共にそれも下がっていたのか、36.0℃前後になっていた。ご時世がこうなる前、体調が悪い気がして体温を測ってから満足げな顔をしていたあれは微熱だったのかと、今更になって合点がいった。明らかに不調だったもんなあ。
転ばぬ先の杖ならぬ、患う前の体温計である。良いことしかない。

大人数のお酒の場も減った。ことあるごとに何十人という人が集って夜を囲む機会が昔はあったけれど、今では多くても五人くらいに留まっている。
僕はお酒やお酒の場が好きだと思って生きてきたが、どうやらそういう訳ではなかったらしく、好きな人たちと居られるお酒の場が好きなだけで、つまりは手段としてのお酒でしかなかったと知った。
今になって思えば、人が多すぎると話が霧散してしまって面白くない。僕は味がなくなるまでガムを噛みたい派だ。一つの話題をしつこく楽しむほうが性分に合っているし、それは少人数でしか味わうことができないように思える。

人との距離感をみんな考えるようになったからか、とても心地良い。
むやみやたらと身体的距離を詰めてくる変な人が著しく減った気がする。いわゆる馴れ馴れしい輩からのバリアとして、目に見えないウイルスが効いているようだ。コイツ患ってんじゃないかという疑いの目で見てくれるので非常に助かる。
仲の良い友人であれば近くにいてもなんのストレスも感じないけれど、そうではない、なんの関係性もない赤の他人が出会ってものの三分で肩を寄せてきたりしたものだ。貴方に心開いてないから、と告げるのも阿呆らしくなるようなスピード感には呆れるばかりだった。

コロナの時代は好きなものを抑圧される時代ではあったが、本当に大事なことに気づかせてくれた。
生活の平熱を調整するにはもってこいな時間だったようだ。

一日の仕事を終え、疲れた足を引きずるように最終電車に乗り込んだ。降りる駅のエスカレーターの場所を考慮する余裕もないくらいぎりぎりの乗車で、なんとか間に合ったことに安堵した。
小説一冊ぶんだけ重たくなってしまった鞄からその原因を引っ張り出す。いま読んでいるのは河出書房文庫の『ガルシア・マルケス中短変傑作選』から『大差に手紙は来ない』。ずっと物憂げでやるせなかった。

文字から染みでるやるせなさに息が詰まりそうになり、顔を上げた。一席から二席ずつおきに乗客が座っていて、誰もがなにかからの帰りのように見えた。街から郊外へと向かう最終電車であるから、これからの予定に浮わついている人は誰もいないだろう。
電車が線路を進んでいくことをただ受け入れているような素振りの集団は、静かな川の流れのように落ち着いていながらも、先を急いでいるように思えた。どうでもいいことだった。誰かの帰路に思いを馳せる暇があるなら、小説を読んでいたほうが豊かだ。

帰宅して、冷やご飯をレンジでチンした。茶碗が回っている間に味噌汁を温め、Cook Doの麻婆豆腐の素を使っておかずを調理し始めた。昼間にちぎっておいたレタスに、缶詰の大豆と延びきった豆苗を乗せ、Kewpieのごまドレッシングをかけて軽く和えた。すぐに粗雑な夜ごはんができた。
テレビでYouTubeの動画を流しながら食べようと思いザッピングをする。QuizKnockの動画を流した。彼らの企画は好きだが、空気感がそれよりも好きだった。
誰かの知識を信頼して、難しいことを躊躇いもなく言える環境というのは、幸せの状態のように思えた。誰かが「ディンキン図形のD型みたいな形」と発したことに乗っかって「ファインマン・ダイアグラムみたいな形しやがって」と別の人が言った。素敵だった。

簡単なごはんを終えて洗い物をした。耳の暇つぶしにPUNPEEの『タイムマシンにのって』を流した。面倒な家事ではあるけれど、洗い物をすると日々のストレスが少し解消されると聞いてからは、前向きに取り組めるようになった気がする。麻婆豆腐の赤がスポンジに移ったので、綺麗にしてから皿洗いを終えた。
シャワーを済ませて早く眠ろうと思った。数年前までは、この後に缶ビールを一つ開けたり、すでに読了した本のあらすじを読んでみたり、一日を終えることへの足踏みをしていたけれど、今ではそんな機会も減った。
大袈裟な刺激がなくても十分に満足できるような身体に調整されたのだろう。少し前までは、何かに頼らなければ心が満たされないような日々を生きていたけれど、今では日常の中の小さな出来事を拾い上げ、一日の幸福感に充填することができるようになった。
ストレスが減り、生活の平熱は下がった。紛れもなく、アクリル板の時代が僕にもたらしたある種の成長であり、恩恵だった。
はやく眠ろう。

著:藍草(https://twitter.com/aikusa_ok)

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