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アクリル板越しの世界

小説
テーマ『アクリル板』

 学校から帰る途中、客がいるところを一度も見たことがなかった喫茶店が閉店してしまっているのを見かけた。シャッターが下ろされていて、閉店を知らせる張り紙が一枚だけ貼られている。その寂しい状況に胸が締め付けられるような切なさを感じる。客がいなくてもこの喫茶店はずっとここにあるのかと思っていた。この喫茶店には一度も入店したことがなかった。個人経営の喫茶店よりもチェーン店のほうが落ち着く性分の所以だった。だから私が感傷を抱くのは相応しくないのだろう。私もこの喫茶店を追い詰めてしまった存在のひとりなのかもしれない。とはいえ私がこの喫茶店に通い詰めていたとして、それで結末が変わっていたかは定かではない。

 よく目を凝らすとシャッターの前にアクリル板が数枚立てかけられていた。きっと流行病の対策に設置されていたものなのだろう。私は立ち止まって、少し考えてからそのアクリル板を一枚手に取った。縦も横も私の肩幅ぐらいの長さで、若干の擦り傷が目立つ箇所もあるけれど、向こう側がくっきりと見える。私はそれを片手に持ったまま喫茶店から離れた。

 私は歩きながらアクリル板を目の前に掲げて、透明なヴェールを通して世界を見た。錆の目立つ信号機や排水溝から伸びる草花。ずっと同じ場所に置きっぱなしになって朽ちはじめている原付。無機質な住宅が立ち並び、その遥か先には淡い水彩のような稜線が見えた。いつもと変わらない私を取り巻く世界がある。前からランドセルを背負った数人の子供が歩いてきて、全員が私を見て不思議そうな表情を浮かべながら通り過ぎていった。スーパーの袋をぶら下げた中年女性ともすれ違ったけれど、彼女は子供たちとは違い、不審そうな目を向けてきていた。普段の私なら他人に見られていると思うと落ち着かなくなってしまっていたけれど、いまは大丈夫だった。きっとアクリル板越しに他人からの視線を受けているからだ。薄い透明の板を一枚隔てることによって、見える世界と実際の自分が隔離されているような心地がする。カメラ目線の人物が写っている写真を見ている感覚に似ていた。アクリル板があれば、いつもは自意識が邪魔をしてしまってできなかったことができるかもしれないと思った。気になる服屋があった。外装の雰囲気も素敵だし、ウィンドウ越しに見える服の雰囲気にも惹かれるものがあった。けれど、その店はあまり大きくはなくて、店員からどう見られるのかを考えてしまって、入ることに躊躇してしまっていた。私はアクリル板という心強い味方を連れて、その服屋に行くことにした。

 店の前に着いて、立ち止まることもなく、アクリル板を掲げたまま入店した。店内には客がおらず、店員が客が入ってきたことに気づいて「いらっしゃいませ」と元気よく声を出したけれど、その声は途中で萎んでいって、最後の「せ」のあたりはほとんど聞き取れなかった。途中で私がアクリル板を持っていることに気がついたのだろう。そしてもしかしたら私のことを過剰な流行病対策をしている人だと思ったのかもしれない。そう思ったのなら、大きな声を出すのははばかられるから、声が小さくなっていっても無理はない。私はそのまま立ち並ぶ服を物色しはじめた。どの服も私の趣味にあっていて、素敵なものに見えた。そのなかからいくつかピックアップして、店員に試着していいか聞いた。店員は変な表情のまま、小さな声で試着室へと案内してくれた。

 試着を終えて、一着だけ購入することにした。会計をしていると店員が「かなり厳重に対策してますね」と私が手に持つアクリル板を指さして言った。

「いえ、これはさっき拾ったやつ持ってるだけです」

「どういうことです?」

 店員は私の言っていることが理解できないでいるようだった。

「そのままの意味ですけど」

 その他に何も言うことがなかった。補足するようなことは何もない。店員はそれ以上何もか聞いてくることはなく、会計を終え商品を渡すと、型式となった感謝の言葉を述べた。

 私は店から出て、久しぶりに上機嫌だった。行きたいと思っていた服屋に行くことができたし、素敵な服を買うことができたからだ。私は服の入った紙袋を揺らしながら家に帰った。

 自分の部屋に入ってアクリル板を置いて一息つくと徐々に冷静になっていって、頭の中では先ほどの服屋での店員との会話がぐるぐるとループしはじめた。大したことは話していないけれど、あの店員はきっと私のことを変な人だと思ったに違いない。なんだかずっと夢心地のようだった。アクリル板にはこんな魔力があるなんて思わなかった。あの服屋にはもう行けないかもしれない。

著:早尾(https://twitter.com/haya_toma


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