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放浪記(一部〜三部)・林芙美子

読書感想文 『放浪記・林芙美子』


『私は宿命的に放浪者である。私は古里を持たない。』
という文章から「第一部・放浪記以前」が始まる。
そこを読んだだけでも変にワクワクする。そのワクワクは、嬉しい、楽しいというワクワクではなく、林芙美子という女性の生き様を垣間見れるワクワク感だ。
これは小説ではなく、芙美子が日々書き留めた日記だ。当然、主人公は芙美子自身であるから、正直に綴られたその日記には心を奪われてしまう。
571ページという長い文章である。
ただただひとりの女性に魅せられて読み進める。

芙美子は子供の時から両親の都合でいろんな地域を転々として過ごしている。親しい友達ができずに小学校をやめて子供ながらに行商に出ていくようになる。それからの芙美子はずっと貧しい生活を強いられる。好きになった男を追って東京に出ていくが裏切られる。働いても働いても安い賃金しかもらえずお金に困っている。より良い場所や仕事を求めていろいろ歩き回っては落胆し、でもまた復活し、そしてまた落胆する。何日も食べれない日は、泥棒でもしてやろうかとも考える。それでも芙美子の心の中にはいつも文学があった。
基本的に情にもろい、飽き性、男を見る目がない。という印象を受けるが、芙美子はものすごく行動的。お腹が空いていても着る着物がなくても何か当てがあるわけじゃなくてもどんどん歩く。歩いていろんなものを見聞きして自分の考えを確認していく。
そして、自分をさらけ出していく。
それは決して明るく元気で健気な女性というわけではなく、人の悪口も言うし、ズルいこともするし、見栄っ張りなところもある。何とかして生きたいと願う時もあれば、もう死んでしまいたいとすぐに言う。いたって人間臭い女性であった。そんな明け透けなところが芙美子の魅力なんだろう。
彼女が現代に生きていたら、きっとSNSなんかでバズっていたに違いない。

  • 神様コンチクチョウと怒鳴りたくなります。

  • 酒は呑みたし金はなしで、敷布団を一枚屑屋に一円五十銭で売って焼酎を買うなり。

  • ああカクメイとは北方に吹く風か….

  • モウレツに激しい恋をしてみたくなる。

  • 只、だらだらと愚にもつかぬ事をノートに書きながら自分で泣いているのだからいやらしくなってくる。

芙美子の言葉はどれをとっても本気なのだなと思う。


この付箋の数…忘れられない言葉ばかり


ただ、途中で関東大震災が起こったと思われる箇所があるのだけど、それについては詳しく書いていない。なぜだろう?と不思議に思ったが、関東大震災よりも悲惨であったであろう芙美子の生活がうかがえる。どっちにしても芙美子はその日、その日をどうやって生きるかしかなかったのだろうと想像する。

一部と二部が昭和5年、三部が昭和24年の刊行。いずれも大正11年~15年、芙美子が19歳から23歳までの時期に書き溜めた日記風の雑記帳からエピソードをまとめたものが主となっている。現在一部から三部まであるが、時系列に綴られたものではなくそれぞれが独立したものとして出版されている。二部の終わりには芙美子のまとめのような文章が書かれているのは、当時三部が発行されるとは思っていなかったのだろう。
三部は戦後になって発行されたもので、戦時中は自由な発想の書物は検閲検査で出版禁止、起訴、投獄となることを予想して出版されなかったようだ。解説にもあるが、また新しい雑記帳が見つかれば、第四部が発行されるかもしれない。この放浪記には終わりがない。

読後、ものすごい元気が出た。
この人の地を這うような溢れんばかりの想いに反して、このフットワークの軽さは見習えるものなら見習いたい。
当時接触のあったダダイスムの詩人たちの影響を受けながらも、独自の世界での芙美子はかっこいいなと思えたところで、これを読後感とする。

放浪記・林芙美子




読んでいただきありがとうございます。 書くこと、読むこと、考えること... これからも精進します。