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雁字搦めの多様性

お久しブリーフ。

前回の記事から1年経ってました。三日坊主ってレベルじゃねぇ。

最近旦那がnoteを始めて、「そういえばnote書いてないなぁ」と思い出し、再開しました。

このnoteは目的があって始めたことなんですが、持ち前の口先だけが発動してしまいました。

このnoteは音楽について意見を出すと言いましたが、あれは嘘だ。

いえ、嘘ではなかったんですが、トピックを絞ると書くことの消耗が早いので音楽縛りを廃止することにしました。

では何を書くのかと言うと、

その時ひっかかった言葉や時事ネタをメインに趣味のことや小説なんか

です。早い話ごった煮です。脈絡のない雑多なnoteにしていきます。ごった煮や雑多の方が私らしいですよね。(知らんがな)


今回は多様性について考えましたので、お題目とさせていただきます。

今や小学生でも知っている言葉ですよね、多様性。

「いろいろな種類や傾向のものがあること。変化に富むこと。」

という意味だそうです。

多種多様な人やものが小さい板で知ることが出来る現代。我々はこの「多様性」という存在を

認めていこう、向き合っていこう、共存しよう

としていますね。

それはとても良いことです。

しかし、この「多様性を認める」が時に何か縛りのように見える時があるんです。

例えば、世間におけるマイノリティを理解しようという意見があるとする。ここまではいいんです。しかし、「マジョリティはマイノリティを認めるべきだ」という意見はおかしいですよね。

それは、「【マイノリティを認めないマジョリティ】を認めない」という、ひとつの多様性の否定となるのです。

もちろん理解できない・認めないからといってそれに該当する人やものを口撃したり否定するのはダメです。

でも、私はその考え理解できないなぁ…とこっそり胸の中で考えている人にまで改心を求めるべきではない。そう思うんです。

私はスマホ依存症一歩手前と自覚しています。SNSや匿名掲示板なども結構見ます。

それほど見ていると、やはりちらほら見かけるのが多様性の押しつけによる「多様性を認めない人を認めない」という矛盾。

私はこれを雁字搦めの多様性と考えます。

ネットなんてそんなもんと言われればそれまでですが、ネットと現実の区別を付けられない人もネットを使います。

多様性という言葉に生かされるものもいれば、潰されるものも出てくる可能性もあります。

多様性を認めるのが多様性なら、多様性を認めないのも多様性。

そういう感じで生きた方が、私もみんなももっと楽になるんじゃないでしょうか


いや、楽じゃない人もいるか。

多様性って難しい…

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