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【完全ネタバレ注意】シン・エヴァンゲリオン劇場版:||を見た率直な気持ちを残しておく

初日の初回上映を見てきました。ぜひネタバレなしで見て欲しいし、素晴らしい作品でした。以下は鑑賞後に読んでもらって、共感していただけたら幸いです。2ページくらい空白を空けますので、未視聴の方は引き返してください。
あるいはエヴァに思い入れがない方はエアプ勢として気にせず読んでくださっても結構です。


















以下、率直な感想なので批評的な側面があります。ですがこれは一応、エヴァを20年間愛好した者として書き残しておきたいことなので、そのあたり予めご理解ください。まとまらない文章なので読みにくいかもしれません。

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『魔法少女まどかマギカ』はエヴァの本質を汲み取っていた

2011年3月11日の影響で最終回が延期になった魔法少女まどかマギカ(以下まどマギ)。その最終回は、まどかが魔女のいない世界を再構築するという物語でした。そして今回の『シン・』も同じ構造だったというのが最初の感想でした。内容については割愛します。

いわゆるセカイ系を世に知らしめたエヴァンゲリオンですが、どちらかというとバッドエンドが斬新だったことでメジャーになっていったように記憶しています。つまり、「お金払って映画館に行ったら鬱エンドでなんだこれどうしたらいいだ」という旧劇版の攻め方がエヴァンゲリオンの良さだとして幅広く支持されたと思うのです。これは個人的な感想ですが、もし旧劇がハッピーエンドだったら、こんなに長期間支持される作品たりえなかったでしょう。

他方、まどマギはTV版の最終回でハッピーエンドを提案し、劇場版でバッドエンドを提案しました。エヴァの逆パターンだと感じたことを思い出します。

この2つの作品は、ある1人が世界の理をすべて変えてしまえるとしたらどうなるか?というファンタジーです。特撮SFアニメで表現したのか、魔法少女アニメ的に表現したのかの違いで、本質的には同じ世界観とプロットで構築されています。こちらも内容詳細は割愛します。

『シン・』を視聴後、開口一番「まどマギに先にやられちゃったな」という言葉が出てしまったのが率直な感想でした。
ですがそれは、だから『シン・』が劣っているとか、ダメだという訳ではありません。むしろ、よく今のタイミングでこの救済のストーリーを与えてくれたなという感情でした。
庵野秀明総監督はシン・ゴジラで東日本大震災へのオマージュとして救済のメッセージを提案してくれたのだと思います。今回の『シン・』はコロナ禍によって、より個人的な問題となった社会との関係性への救済メッセージになっていると思うのです。


人類補完計画の対極にある田植え

ゲンドウが思い悩んだ孤独について、印象深いのは「ピアノが好きだった。自分の意図したものをそのまま返してくれるから」という風のセリフがありました。これは他人はそうではない、人の思いを汲もうとしても空振りに終わる虚しさの対比として描かれていました。
ゲンドウの心象は、シンジの抱える孤独と同じものだったということです。シンジが拗ねて誰とも会いたくない、何もしたくないと動かなくなることと、ゲンドウがユイの喪失によりふさぎこんだ状況は、まったく同じ問題だと表現されていたように感じました。

それは誰もが持つ問題、つまり、論理的に他人とは分かり合えないという問題です。相手の言葉や言動を確認したいという欲求や行為は、本質的に分かり合うためというより、ちょうどいい関係を構築するためにあります。

ですがゲンドウ含めゼーレは人類補完計画によって、その心(作中では魂)の境界線をなくして問題を解決しようとするのです。これは旧劇から変わらない世界観ですね。

この”他者と分かり合えない”は論理的に正しいのですが、『シン・』では、それでも「どうすればいい関係になれるのか?」が描かれています。
特に印象的だったのは、黒レイ(黒プラグスーツの綾波)は村仕事をして、同じ仕事を体で感じることでちょっとずつ理解します。
田植えのシーンは意外でしたが、とてもエヴァンゲリオンの根源に触れていると思いました。これまでのエヴァンゲリトンシリーズはネルフと選ばれた子供達以外の登場人物が極力廃されていました。それゆえに全体が閉じた世界観になっていたのですが、『シン・』でようやく外の世界が描かれ、外の世界との交流で様々なことを学ぶんだという提案がなされたのは、とても意義深いです。

例えるならば、家族とだけ一緒にいればいい幼少期、学校という閉鎖社会で生きている少年期を卒業し、ちゃんと社会と接する青年期に成長するという物語なのです。
エヴァンゲリオンシリーズは、一部の登場人物以外は「学校」のようなネルフに共同生活する少年の物語でした。旧劇までは冬月だけが外の世界とつながっているような感じがしていましたが、新劇以降は選ばれた子供たちも外の世界につながるようになっていきました。そして『シン・』において、最も社会と隔離されていた黒レイが社会に触れ、成長していく様子が描かれた。

これは孤独を抱えるゲンドウ型の人に対する庵野総監督からの解答に感じました。
分かり合えないのは分かってる、けど分かり合えなくても一緒に生きて楽しむことができる、というメッセージだと。

これは人類補完計画の対極にある考え方であり、これこそがエヴァンゲリオンシリーズが長い間送り続けてきたメッセージだと思うのです。
LCLから生まれる生命であるレイと、土から生まれる植物が、対になるモチーフとして描かれたことにとても感激しました。LCLは化学薬品みたいな表現だったのですが、そのアイデアは田んぼだった。腑に落ちました。

ゲンドウは田植えをやるようなキャラではないでしょうし、なんなら人より理解しがたい「自然」を相手にあれこれすることは嫌かもしれませんが、完全にコントロールできなくても付き合うことはできる。人類はそうして農業をやってきたのです。
赤ちゃんが泣くシーンも、コントロールできない存在として人類補完計画の対極のモチーフでしたね。


分かり合えなくても、優しくできる

LCLとなり同化することで他者との軋轢がなくなる世界。つまり人類補完計画とは「誰かと一緒になりたい、分かりあいたい」というモチーフでした。

他方、黒レイが体験した交流、あるいはシンジが抱えた苦悩と葛藤は、嫌なこともあるけど生きてくしかないし、いいこともあるよ、という他者境界を受け入れた世界観。「分かり合えなくても、一緒にいられる」というモチーフでした。

後者は、僕がエヴァンゲリオンから学んだ人生訓です。

エヴァンゲリオンから受け取っていたメッセージが、『シン・』視聴後に「やっぱりそうだったんだ、その意味で受け取ってて正解だったんだ」と確信し、上映中に震えました。嬉しかった。
もしかしたら違っていたかもしれない、もしかしたらそんな平和な世界観じゃないかもしれないと悲観的な気持ちで劇場に足を運んだのです。それが「いや、それで合ってるよ」と、それこそ褒められたような気持ちになりました。

そして単純に、みんなそれぞれ救われてよかった。特にユイがちゃんとゲンドウと一緒になって救われたのは良かった。

思いつくままに書きましたので、委細不明瞭ですが、こんなところです。ありがとうエヴァンゲリオン。

サポートなんて恐れ多い!ありがたき幸せ!!