ファインダー越しの握手
初めて「写ルンです」を使って写真を撮った日が忘れられない。10年も前のことだ。
祖父にもらったフィルムカメラを持って、私は街に繰り出した。たった27枚で何ができるだろうか、私にしか撮れない風景は何か。考えた末に子供の頃から通い慣れた商店街へ行き、全く面識のない27人の店員たちと握手する様子をカメラに収めることにした。写真を撮るため、と言う理由で知らない人に話かけるのにはえも言われぬスリルがあった。そのとき、カメラは私の武器だった。断られるかもしれない、怪しまれるかもしれない、なんていう考えは頭の中に1ミリもない。無敵になった私は、急き立てられるようにフィルムを使い切った。
あの時の私はすごかった。得体のしれない全能感が、私を突き動かしていた。私は13歳だった。
10年前に書かれた本がいま再び脚光を浴びていると聞き、読むと決めた。タイトルは「友達幻想」。
ファンタジー作品かと思いきや、社会学者が書いた〈人と人のつながりを考える〉ための本だ。取り上げられているのは、年代や性別を問わず、現代に生きる私たちすべてに関わるコミュニケーションの問題である。
筆者・菅野仁は、現代社会を生きる若者たちの、人付き合いに対するどこか醒めた意識に違和感を覚えた。執筆のきっかけとなったのは、日本青少年研究所が行なったとある調査だ。日本の若者に対し、意欲に関する調査したところ、注目すべき現象が起きていることが分かった。多くの若者が、地位や名誉、安定した収入よりも、一生付き合える友達が欲しいと発言したのである。同じ内容で調査を行なったアメリカ・中国・韓国の若者と比較すると、日本の若者は友達を重視する傾向が突出して高い。しかし一方で、他者とのつながりを重視しすぎることで、多くの若者が人間関係に悩みや問題を抱えているのも事実だ。この矛盾を解消するために必要なのは、他人が自分のまるごとを受け入れてくれる「友達幻想」を捨てることだ、と筆者は述べる。
ページ越しの問題提起に、自らの体験を振り返る。私にも、「友達幻想」を抱いていた時代が確かにあった。
子供の頃は、どちらかが折れるまで言い合いをしたり、収まりがつかずに取っ組み合いになることもあった。相手を傷つけたのと同じ分、自分も傷つけられて、最後にはお互いの傷だらけになった姿を見て笑いあっていた。でも、そういう風にできたのは相手が自分を嫌いになるはずはないと、信じていられたからだったのだと思う。
ある程度の年齢になれば、他者とぶつかるのにどれほど体力が必要なのか、嫌でも分かる。人と深く関わるのは億劫だ。できるかぎり相手に嫌な顔をされたくないし、一生懸命自分の考えを伝えたところで、分かってもらえないのなら初めから話さない方がいい。そうやって、人とぶつかり合うことは減っていったし、何か発言する前に、まず考えるようになった。そんな風に穏やかな関係を築ける自分は、大人になったのだ、とばかり思っていた。
けれど、表面的で臆病な付き合いは、何を生むというのだろう。筆者の優しく寄り添うような問いかけは、私には刃物のように鋭くみえた。
部屋を掃除していたら、埃をかぶったネガフィルムが出てきた。記憶とは違って、ファインダー越しに交わした握手の写真は、お世辞にも「いい」とは言えない出来だった。それでも良かった。あのカメラがなければ、私は商店街の人と握手することはなかったはずだ。ゴツゴツぶつかり合っていなければ、親友はできていなかったかもしれない。何の苦労も痛みもなければ、人と関わることの本当の面白さは味わえないのだと、あのときの私は知っていた。
写真の上を、乾いた手でさっと払う。埃が宙に舞うのをぼーっと眺めながら、フィルムへ目をやる。くっきりと、固く結ばれた手が写っていた。10年前の自分に背中を押され、私は大人になったふりをやめる。