春
もう過ぎた事。 今更何を。 そう言われたら確かにそうだが、もう過ぎた事で、今更どうにもならないからこそ書くことにした。書くことを決めたのは、それがずっと喉に引っかかった小骨のように、何年も気になっているからだ。きっかけは、ある女性が書いた性的被害のツイートだ。それがたまたま流れてきた。その女性とは状況が全く違うし、自分と重ねるのも失礼なのかもしれない。これを読んで、どのように感じるのかは人それぞれだろう。 もう5~6年以上も前の話だ。当時、私はいわゆる「自分探し」の真
先日、髪を短く切った。 ハサミを入れる時、若い美容師さんが不安げな表情を浮かべながら、 「本当に切っちゃっていいですか?」と尋ねてきた。 髪を切られる私よりも、髪を切る側の彼女の方が緊張している様子だった。髪を切ったぐらいで何かを失うわけではない。むろん何かを得られるわけでもないが。私は躊躇うことなく「お願いします」と言った。 切った髪がはらりと床に落ちた。春風に舞う新緑の葉のように、とても軽やかに。その瞬間、私は大きな荷物を下ろしたような、そんな気持ちになった。約2
ある時から、文章が全く書けなくなった。昔はあんなにアイデアがあふれ、三度の飯よりも書くことが好きだったのに。またある時から、撮りたい写真が撮れなくなった。四六時中手元に置いてあったカメラは箱に仕舞い込まれ、日常の風景すら撮らなくなっていた。 年々、内にある情熱が消え、何かが削ぎ落されていくのを感じる。何をしていても、心から楽しいと思えない。物書きになりたいと、必死で言葉を紡ぎだしていた頃の自分が、一時もカメラを離さなかった頃の自分が恨めしく思うことさえある。純粋に「好
今年も終わる。だからどうということもない。蕎麦を食べ、テレビで流れる流行りの歌を「知らないな」と呟きながら横目で観る。年々、置いてけぼりだ。もはやついていくこともできないし、ついていこうとも思わない。「どうぞ先に行ってください」とただ手をふるだけ。テレビの画面を凝らして見る。48か46かわからない。こういう風に年々すべてが通り過ぎて、遠くなっていく。でも、それでいいのだ。同じ場所で、通り過ぎていく時代を横目に、何事にも動じず、ブレず、そこでじっと立っている。そういう生き方
コロナウィルスが流行して、世界には大きな穴が空いた。人間はその大きな穴に引きずり込まれまいと足掻いているが、どう足掻いても穴はふさぐことはない。連日テレビで、感染者数、死亡者数が発表されるが、それはもうもはやただの数字に過ぎず、リアルに何も伝わってこない。確かに多くの人が、大切な命が喪われているというのに。 数か月前、緊急事態宣言が発表され、仕事もすべてキャンセルになり、私は毎日自宅で過ごすことを余儀なくされた。ちょうどあの頃、私の中で大きな変化があった。「生きている
ふと「あの人はどうしているだろうか」と思う。ふとあの人の言葉や仕草や、温もりを思い出す事がある。1年経った今でも、それは真空パックされたみたいに鮮やかなままだ。人はそれを「未練」と呼ぶ。未だ練れず。未練という言葉は本来、仏教で修業が未熟であることを指していたという。未熟であるが故に、俗世間をあきらめきれない。転じて、諦めきれないことを人は男女関係の「未練」と呼ぶようになったそうだ。 私の場合「未練」ではなく「未恋」なのかもしれない。あの人との関係はとっくの昔に諦めている
子供の頃、私は当然、大人になれば、誰かと出会い、結婚をし、出産をすると思っていた。当然のように、私の目の前にはそんな未来があった。私は「将来の夢は?」と訊かれて「お嫁さん」と答える女子の気持ちがあまり理解できなかった。誰かの「お嫁さん」になるというのは、夢ではなく必ずやってくる未来だと思っていたからだ。中学生になっても、高校生になっても、20歳を過ぎても、私はいつもそんな未来がくると思っていた。 25歳の時、私は当時付き合っていた人と結婚をすることになった。年齢的には(
いつも今日が普通の日であってほしいと願う。朝目覚める時、ご飯を食べる時、運動をする時、家事をする時、出かける時、仕事をする時、帰宅する時、お風呂に入る時、夜眠りに就く時。 今日が普通の日ならそれでいい。淹れたての珈琲とこんがり焼いたトーストに目玉焼き、それでいい。何も特別なことはいらない。いつものように支度をして、好きな服を着て、縁起担いで右足から家を出よう。橋の上で、決して綺麗とは言えない川を眺めながら、喫茶店「檸檬」の前を通って駅へ向かおう。職場に就いたら、授業の準
「なあ、どう思う?」 そう話しかけてみた。それは黙っていた。それでも僕は話し続けた。「僕が悪いのか?なあ、どう思う?」夏休み中のある日のこと。僕は学校の裏にあるひまわり畑にいた。「話してみる?」という看板が立てられている。僕は話してみることにした。 オトナからすれば、ただのこども喧嘩。でも僕たちはいつだって真剣にけんかをしている。ただの”けんか”ではない。いたってマジメだ。悩んで相談した相手が悪かった。「ただの子供の喧嘩だろ」そういう答えが聞きたかったわけでない。
人は死ぬ。 誰もがそのことをわかっている。わかっているはずだ。 誰にでも死は平等にやってくる。 でも、私たちは死を意識ながら生きてはいない。 毎日、死を意識しながら生きていくことはできないからだ。あるいは、死に目を向けないように生きているだけなのかもしれないが。 養老孟司氏の「バカの壁」を思い出す。部屋をなかなか片付けない娘さんとのやりとりだ。娘さんが「どうせ片付けてもまた散らかるし片付けない」と言うと養老氏は「じゃあ人間もいつか死ぬんだから今すぐ死になさい」と言っ
この頃、夜がこわい。特に眠りにつく少し前がこわい。昼間は気にしないでおこうと、横に置いておいたものが、私の上に圧し掛かってくるからだ。いろんな不安が一気にやってくる。闇の中に引きずられる。 今日はなんとか生きた。でも明日はどうなる。 これまでなんとか生きてきた。でもこれからどうなる。 そんな答えのない疑問を虚空に投げかける。 今は、飛びながら飛行機をつくっている気分だ。今にも落下しそうな継ぎ接ぎだらけの飛行機を飛ばしながら、もうだめかもしれないと言いながら、
いつもの散歩道にネモフィラが咲いていた。自然と笑みがこぼれる。私は無意識にカメラを向けていた。カメラのシャッターを押す度にカシャッという乾いた音が天に響く。目を閉じ、深呼吸をした。マスク越しだが、春の匂いを感じることができた。その空気に漂っているであろうウィルスなどお構いなしに、春は今年もこの可憐な青い花を咲かせてくれた。 ネモフィラ、その言葉を反芻する。響きがいい。ネモフィラは北アメリカ原産の一年草で、3月から5月にかけて花を咲かせる。和名は瑠璃唐草。英語名はBlue b
2020年も12/365を過ぎました。年々、一年が3か月ぐらいの感覚で過ぎていくのが恐ろしい。とはいえ、ぼーっと生きていくわけにはいかないので、遅ればせながら、2020年の目標を立てました。意識的に目標を立てよう!と思って立てたわけではないのですが、新しい年になり10日程生活する中でなんとなく今年はこういう風に生きていこうかなと方向が定まっていった感じです。 タイトル通りですが今年は「数字を追いかけない」生き方をしようと思っています。これは今年に始まったことではなく、実はこ
私には決定的な何かが欠けている、あるいは何か、とても悪いモノにとり憑かれている。そう思うことがある。昔からなんか上手くいかない。人生のあらゆるポイントで、躓いてしまう。しかもとても大事なポイントで。ボタンを掛け違えたような人生である。つまり最初から何か間違っている。 昨年はそのことをひしひしと感じるような出来事に見舞われた。滑り出し上々、緩やかな坂を下ってゴール、ならどんなにいいのだろう。いつも滑り出しは上々、緩やかな坂はなく、崖下に落下する。それが1,2回ではない。毎回