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『母をたずねて三千里』(高畑勲)ー慈悲と冷酷の狭間でー

「ううん、素晴らしかったんだ、僕の旅!」

ーーマルコ・ロッシ(『母をたずねて三千里』最終話より)

◆「もっとちゃんと評価されてしかるべきなのに誰も評価していないから、頭に来ている」

 『風立ちぬ』、『かぐや姫の物語』が相次ぎ公開された当時、文藝春秋の企画で高畑勲と宮崎駿と鈴木敏夫の最初で最後の鼎談があった。(「スタジオジブリ30年目の初鼎談」) 鼎談の中で鈴木敏夫が2人に問いかける「お互いの作品で何が一番好きなんですか。」と。
 どちらの回答も予想通りで、高畑勲は『となりのトトロ』を選び、宮崎駿は『アルプスの少女ハイジ』を選んだ。この時の「もっとちゃんと評価されてしかるべきなのに誰も評価していないから、頭に来ているんですよ。」という宮崎駿の言葉が自分には印象に残っている。
 『アルプスの少女ハイジ』の知名度は今もなお相当高く、「名作」というイメージも一般的だろう。だが、それは「ちゃんと評価されて」いることとは、大きな隔たりがある。ハイジを「名作」と答える多くの人の脳裏にあるのは、ヨーデルの曲、空中ブランコ、「とろけるチーズ」や「クララが立った」という断片的なイメージやトライのCMであり、52話のアニメーションを通じて捉えられた世界の実感のことではない。(とはいえ、「名作」になるということは、実際に鑑賞をしていない広範な人々に、曖昧で断片的なイメージを定着させることに他ならないだろう。)

 自分にとっては、ハイジ以上に「頭に来ている」作品がある。『母をたずねて三千里』だ。高畑勲が全面的に関わった作品で、Blu-ray化がされていない唯一の作品である。
 『母をたずねて三千里』の知名度は『アルプスの少女ハイジ』に負けて劣らないが、そこにあるイメージはより曖昧で断片的だろう。多くの人が想起するロバにまたがり草原を往くマルコの姿は、実際にはたった2話だけだ。(第47話でロバにまたがるが、第48話で老齢のロバは疲弊と寿命で死んでしまう。)音信不通となった母との再会は、物語を駆動させるための口実に過ぎない。”30秒で分かる『母をたずねて三千里』”というネタは、本作の主軸が”魚のセボネ”でしかないことを看破しているともいえるかもしれない。
  本作で描かれたものは何か。高畑勲の作品について最も的確で芯をついた言語化をする人、それは高畑勲自身だ。

 ぼくたちは五十二本一九時間半のたっぷりした持ち時間を使って、人と人との触れ合いやつながりを一生懸命描こうとした。そうすれば自然、苦しい中にあってもやはり、うれしいことや楽しいことも、愚かしくて滑稽なこともぼくたちの人生同様でてくるはずだし、逆にいくら慰められても癒されない孤独感というのも出て来ます。人の情けに触れるマルコの側をとらえるだけでなく、マルコという厄介な存在をつきつけられることで、日頃のずるさや弱さからいっとき翔びたてるかどうか、そのあたりで右往左往する大人たちを描いた。
慈悲と冷酷の両極だけでなく、その中間地帯に湧き出てくる人間的ぬくもりをとらえようとしたのです。

ーー高畑勲『映画を作りながら考えたこと』「逃した魚は大きかったか?」

 ここでは、彼が成し遂げた表現の一端について、あるキャラクターに具体的な言及をすることで、作品理解の補助線を引いてみたい。

◆メレッリおじさんの呵責

ぼくたちは人々を描き、環境を描いた。喧騒あふれるジェノヴァの下町を、ブエノスアイレスの船溜りの泥の町を、ボロボロの移民船を、果てしない大草原を、コルドバ郊外の貧民地域を描いた。飯場で働く丸坊主のエミリオを、旅芸人のペッピーノ一座を、黒人水夫や下級船員を、移民たちを、空ビン屋を、食堂のおやじを、捨てられた肉を拾い家族に喰わせる生活力あふれるインディオの少年パブロとその妹を描いた。鉄道のおかげで職を失いかけている牛車のガウチョたちを描いた。使い込みして高飛びした伯父を、それをおどすやくざを、そして貧困者のための医療運動に泥まみれになって献身する父とそれに共感して南米にまで出稼ぎを決意する母を描いた。善玉でも悪玉でもない精一杯に生きるしかない貧しい人たちが、途方にくれながらもマルコに同情し、けなげさに感激して手をさしのべる姿と、自分のことしか考えない金持ちや召使いの冷酷さを描いた。

ーー高畑勲『映画を作りながら考えたこと』「逃した魚は大きかったか?」

 メレッリおじさんとは上記の引用文で出てくる「使い込みして高飛びした」マルコの伯父のことだ。
 マルコの母であるアンナは、メレッリを唯一の頼りにアルゼンチンに出稼ぎに行ったが、メレッリは事業に失敗して、次第にアンナがイタリアに仕送りする金を着服し始める。それを不審に思わせないため、アンナがイタリアへ送る手紙も全て自分の手元で止めていた。マルコと母の音信不通状態を作り出した張本人である。
 とはいえ、当初はマルコも視聴者もその事を知るよしはない。物語の中盤、アルゼンチンに着いて(有り金を全てスられた)マルコに与えられる情報は、母親が頼りにしていたメレッリおじさんが夜逃げをしていて、南方のバイアブランカで目撃されたということだけだ。
 バイアブランカについたマルコは、街のイタリア人の情報を握る有力者モレッティを頼るが、メレッリおじさんの情報はつかめない。(そもそも探しようにもマルコはメレッリの顔も年齢も身体的特徴も知らない。子供なりの見通しの甘さがモレッティとの会話で一挙に顕わになる場面は容赦がない。)絶望の中、マルコは浮浪者のようにさまよっていると、仲間のように声をかけてくる浮浪者が現れる。マルセル・エステロンと名乗るスペイン人の男である。(第35話「おかあさんの懐かしい文字」)

エステロンとマルコ/35話

 彼はレモネードを奢ってやった少年が「マルコ・ロッシ」という名前を名乗り,「メレッリおじさんを探している」とジェノヴァからの旅の事情を話し始めると、明らかに動揺をし始め、「急な用事を思い出した」と言って席を立つ。しかし出ていく刹那、ドアの手前でマルコのもとに引き返し「なぁマルコ、さっき一人で(きた)って…たった一人でってこと?」と聞き、マルコがうなずくと、また席を立つ。そしてまた出ていこうとする刹那、マルコのもとに引き返す。この度に彼の顔はこわばり始めている。「お前さん、これからどうする気なんだ?あくまでも、その、なんとかっておじさんを探す気かね?」自分の存在を知れば名乗り出てくるはずだという見立てと、おじさんがこの街にいる根拠をマルコが伝えると、やはりまた席を立って出ていこうとする。そして数秒立ち止まる。何かを心に決めたのか、マルコに対して、メレッリおじさんかもしれない人と自分は知り合いであり、その男は半年前に死んだ、しかし彼の家を探せばマルコの母の手掛かりがつかめるかもしれない、自分が探してくる、とひどく曖昧模糊とした話を伝える。
 場面はどこかの廃屋に移り、エステロンはレンガに隠された手紙の束をとりだし、大部分の手紙を一人で焼き払っている。エステロンは、ブエノスアイレスの転居先が記されたマルコの母の手紙がメレッリの家から見つかったと言ってマルコを喜ばせ、ブエノスへの汽車賃は自分が工面すると申し出る。 

手紙を焼き払うエステロン/35話

 以上が第35話で描かれる内容だが、このマルセル・エステロンはメレッリおじさんその人に他ならない。彼がバーの出口で右往左往する姿は、ふってわいた呵責の中で揺らぐ良心だ。言葉による説明は何も必要ない。彼の動揺を描くだけで、彼の正体は十分に推察させられる。本作屈指の名場面だ。
 マルコに約束した汽車賃を工面するため、メレッリは鉱山労働の仕事に身を投じて給与の前借をする。実はメレッリは、マルコの母がブエノス転居後に再度コルドバに転居していることを知っているが、そのことをマルコに伝えれば自身の嘘がばれてしまう。自身に都合の悪い手紙を焼き払うように、自分の責任回避を最優先しつつ、マルコの力になろうとしているのだ。
 悪人にもなり切れず、善行もやり切ることができないメレッリは、最後までマルコに直接正体を明かさず、コルドバに母親がいることも伏せて、マルコをブエノスアイレスに送り出してしまう。(一方、彼が別れ際のマルコに持たせた手紙は、ブエノスの有力者であるパドバーニさんにマルコの世話を頼む依頼であり、マルコの命綱となっていく。)
 これは本作が捉えた「人間的ぬくもり」の最たるものであろう。

◆高畑勲の人間観

高畑
世の中なんて不完全なものだと思っていたほうが、その不完全さの中に「いいこと」をちゃんと見いだすことができるようになるし、それをよろこぶことができるのではないでしょうか。そしてむしろ着実に、一歩一歩その不完全さに挑戦して、少しはましなものにしていくエネルギーもわいてくるのではないでしょうか。

ほぼ日刊イトイ新聞「ジブリの仕事のやり方」第15回 「完璧なものは、つまらない。」
https://www.1101.com/ghibli/2004-08-04.html

 高畑勲は人間や社会の不完全さを、まっとうに受け入れることができる演出家だ。根底にあるのは「こうあってほしい」人間を描くことは、現実の人間を絶望させたり、無気力にさせたりするだけではないか、という意識だ。 
 人間の弱さや不完全さを描くことで、視聴者の現実に問いかけてくる構造は、フィクションの作品に没入したい視聴者や観客にとって、ある種”不快”な余韻を残していく。これが高畑作品の肝だ。(この”不快さ”は三千里の精神的後継作ともいえる『火垂るの墓』以降の高畑作品において、より顕著になっていく。例えば、『かぐや姫の物語』の捨丸が姫と最後の逢瀬をした後に、彼の嫁と子供が出てくる場面の”不快さ”を想起してほしい。)メレッリおじさんだけでなく、『母をたずねて三千里』に出てくる大人たちの姿は現実の我々に重なってくる。マルコを取り巻く善意と悪意は、ごくごくありふれたものだ。それが善意であったとしても、マルコの旅路を全責任を持って世話する人は誰一人いない。それぞれの人間に生活と人生が垣間見え、自分のできる限度の範囲内でマルコに手をさしのべる。そうした姿を見ていく中で「日頃のずるさや弱さからいっとき翔びたてる」勇気、「少しはましなものにしていくエネルギー」を視聴者は受け取っていくのである。

 『母をたずねて三千里』の最終話で、母を連れてジェノヴァに帰ったマルコに対して、父親が「苦労をかけたな。」と声をかける。それに対して、マルコは「ううん、素晴らしかったんだ、僕の旅!」と力強く答える。
 さらりと流れるこの台詞が涙腺を刺激するのは、短い言葉の中に込められた大きな感慨だ。旅路の中で、過酷なことも、楽しいことも、人に絶望させられることも、人に助けられることも同じくらい沢山あった。視聴者は全てを知っている。その全てを振り返ったうえで、マルコは逞しく肯定をしたのだ。それは人生への肯定であり、真の意味での人間賛歌であろう。


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