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高畑勲と新海誠の微妙な距離感

『赤毛のアン』をめぐって

『すずめの戸締り』を見た時、主人公の本棚に『赤毛のアン』が一瞬映るのに気付いた。(他にもツルゲーネフの『初恋』などがあったと記憶している。)そういえば、とふと思い出したことは『君の名は』でも『赤毛のアン』を想起させる場面があったことだ。
調べてみると、新海誠自身が高畑勲の『赤毛のアン』を「影響を受けた作品」として公言していることを知った。「アニメの作り方を初めて自覚的に知ったのが『赤毛のアン』」だったとのことだ。

『君の名は』のヒロインを演じた上白石萌音が、直前に『赤毛のアン』のミュージカルの主演を務めていたことも考えれば、上記の場面は意識的なオマージュなのだろう。
このインタビュー(2014年?)の中で興味深いのは、ストーリーに引き込まれて観ていたアニメについて、やはり高畑勲の『母をたずねて三千里』を挙げている。このことは意外なものでありつつ、どこか腑に落ちる部分があった。『すずめの戸締り』のロードムービー的な作り、その中で出会う一期一会の人々とのかかわり、そして”母”を訪ねた先から電車に乗り込み「おかえり」で終わるエピローグに、三千里を勝手に想起していたのである。

高畑勲と新海誠。
一般的に新海誠は宮崎駿との関係で語られることが多く、実際、上記のインタビューにおいても本人が個人名を挙げるのは宮崎駿の名前ばかりだ。(いうまでもなく、『三千里』や初期の『アン』において宮崎駿はメインスタッフの一人だが)
唯一、高畑勲の名前が新海誠から挙がったのは、高畑勲が死んだ時だったと記憶している。

「僕も高畑監督に変えられた1人です。」という言葉の意味について、当時の自分は、「ただの儀礼的な言葉だろう」と考えていたが、今、あらためてその意味を考えている。

「青年だまし」

高畑勲からも生涯で一度だけ新海誠(作品)について言及があったことは、比較的よく知られていることだ。

 たとえば、個人ですべてをCG制作したことで評価された『ほしのこえ』という中編アニメがある。西暦2046年を舞台に携帯メールを介して綴られる、 宇宙と地上に引き裂かれた少年と少女の 爽やかな、しかし絶望的なまでの〈超長距離恋愛〉」というのがそのキャッチコピーである。特徴のある絵ではないしアニメートもほとんどなされていないけれども、映像の出来は決して悪くない。
 私はこれをまったく評価できず、ワンアイディアによる「(子供ではなく)青年だまし」で、「くだらない」としか思わないが、巧みな表現によって社会性のない現代青年の心をくすぐり、琴線に触れることができたようで、売れ行きもよく、いくつか受賞もした。要するに、作者はみずから作り手になることによって見事に「そういう世界から卒業・脱出しないまま、それでも現実を生きる」ことに成功した一人であり※、「卒業」や「自分の非成長の確認」をしたくない若者に支持され、その現象全体を情報メディア産業(とは何のことか分からないが)推進派の脳天気なおじさんたちが追認したのだと思われる。
【脚注】
急いで言いそえなければなければならないが、これはこの段階での評価であり、作家の道を歩み出した作者が、その社会生活のおかげで、以後、もっと社会性のある作品を作りはじめる可能性は充分にある。

高畑勲『アニメーション、折に触れて』(岩波現代文庫)
脳裏のイメージと映像の違いについてより(初出は2008年)

「脳裏のイメージと映像の違いについて」と題された当該文章はとても長く、どういう経緯で『ほしのこえ』が言及されたのかは多少補足が必要だ。
ここで述べられていることは、文章表現が想像力によるイメージ(断片的で漠としているが、それゆえに鮮やかな印象を残す)を能動的に喚起させることができるのに比較して、映像表現は(濃淡の差はあれ)受け手の想像力を封殺し画一化されたイメージを提示せざる得ないという質的な差、アニメーション作家としてその問題にどう取り組んできたか、そして現在の日本アニメはどうなっているか、という話だ。
高畑勲は従来「子供だまし」とされてきたセル・アニメーションにリアリズムを持ち込み、進化をさせてきた張本人である。その理由について、この中でこう述べている。

非現実的なことを信じてもらうためには、なによりもまず、その基盤である作品世界が、この世と同じリアリティをもって、確固としてまず存在していなければならないからである。飛躍のためには、スプリングボードとしての固い地面が必要だ。アニメーションにリアリズムを持ち込んで、薄っぺらなセル画にできるだけ存在感を与えようとする努力の意味は何か。そこに描写されるものが、現実には起こりえないいわゆるファンタジーである場合、その映像をまるで現実に起こったこととして受け止めてもらうためである。そして、逆に現実にざらにあるごく日常的な動作などの場合は、人々の目にかかっているヴェールをはがすためである。(略)そして、そうそうこんな感じだ、と、鏡に映してみた時のような新鮮な親しみをそこに再発見することができるはずだから。

高畑勲『アニメーション、折に触れて』(岩波現代文庫)同上

観客もその世界に入ってしまえる「クソリアル」(by 高畑勲)な背景美術も、かつてのディズニーができていなかった主観的な縦のショットを積み重ねることも、アニメーションに観客を巻き込み、興奮をさせるための意識的な工夫の一つだった。
そうした手法を積み重ねた結果、日本のアニメーション、とりわけ劇場用長編作品は「”子供だまし”どころか、大人にさえ現実には起こりえないことを、いま現実に起こっていることとして見事に”実感させる”までになった。」のだ。
高畑勲はそうした力を日本アニメに身につけさせた当の本人でありつつ、そうした作品が観客にとって快い作劇傾向を持ちがちであることを指摘し、高度に発達した「巻き込み」型アニメの危険性を論じている。

映像の中のヒーローがいかにも英雄然としていれば、観客は自分との距離をはっきり保つことができる。ところが現在の巧みな作劇術では、一見観客と同程度の凡人に、非凡な力を発揮させ、大活躍して問題を見事に解決したり何かを達成させる。主人公を身近に感じ、自分と重ね合わせ、作品世界に没入させるためである。しかもその舞台となるファンタジー世界は、一見現実以上に複雑怪奇、理解不能で、状況判断のしようがないに見えるにもかかわらず、主人公は臆することなくその中に平然と足を踏み出す。状況が掴めているはずもないのに果敢な行動にうって出る。そして、いつの間にか身につけた超能力によって、なぜか成功する。成功するために必要なのは、的確な状況判断や戦略ではなく、「愛」や「勇気」なのだから。 
(略)こういう映像を見ていくら「勇気をもらっ」たつもりになっても、現実を生きていくためのイメージトレーニングにはならないことは当然である。(略)見事に成功している素晴らしい自己イメージだけを肥大させるから。

高畑勲『アニメーション、折に触れて』(岩波現代文庫)同上

ある時期からの高畑作品が見かけ上のリアリズムを捨ててしまったことから誤解が生じやすいが、ここで言われている「巻き込み型」かどうかは個々の表現のリアリズムやファンタジーかどうかで決まるわけではない。最大の要因は「物語の構成・主人公の設定、および演出手法」だと高畑勲は述べている。(それは『おもひでぽろぽろ』が「クソリアル」でありつつも巻き込み型の作品でないことや、高畑作品のファンタジックな飛躍の描き方を考えれば明らかだろう。)
こうした文脈の流れの中で、『ほしのこえ』が具体的な作品名として言及されている。
ただ、『ほしのこえ』について直接的に言及した部分が、現在の新海作品にそのままあてはまることはないだろう。それこそ、脚注で高畑勲に予言されたとおり、新海誠の作品はどんどんと社会性を身につけた。そして、高畑勲が予想できたかどうかは分からないが、新海誠は国民的アニメ作家となった。
だが、根本の作劇自体は『すずめの戸締り』においてもなお、ここで批判的に論じられているものと、さほど変わりがないように思える。その意味で、高畑勲の新海誠批判は生きているし、彼が国民的作家となった中で、その批判の意義は大きくなっていると思われる。

アニメーションが思想や社会を語ること

こうした高畑勲の批判に「”現実の役に立たない”作品の何が悪いのか」と反論することは容易だ。そもそもエンターテイメントは「面白い」「勇気をもらったつもり」だけで十分な価値があるだろうと。先述した2014年当時の新海誠のインタビューでも「アニメって、バンドエイドみたいなもので良いと思う。」というような発言があった。
この点については、高畑勲はバランスが崩れていることを最も危惧していたのだろうと自分は解釈している。日本アニメの大多数が「巻き込み型」になり、人々が享受するのも「巻き込み型」だけになってしまうことがアニメーションの可能性を制限しているのだと。『おもひでぽろぽろ』後の高畑作品は、意識的に、積極的に、そのバランスをとろうとした試みだった。(その意味で、一般観客にとって受け入れがたくなっていくのは必然だった。)
だが、今なお「巻き込み型」の作品が主流であることは言うまでもない。「クライマックス!ビカーッ!ドーン!解決!」(by宇多丸)という日本アニメのクライマックスは、『すずめの戸締り』に限らず、あまりに見慣れているものだ。
こうしたバランスを取り戻す役割を、高畑勲の死後、現状、誰が担えているのか分からない。が、それを将来的に(高畑勲に非難をされた)新海誠が担う可能性もあるのではないだろうか。
作劇上の問題点は別として、『すずめの戸締り』には、新海誠と高畑勲を繋げさせる何かがあった。それはアニメーションで社会を語ろうとする作り手の覚悟と志の部分だと思う。
高畑勲の漫画映画の志は、若き頃に見た『やぶにらみの暴君』を見て「アニメーションが思想や社会を語ることができる可能性を感じた」ことだった。少なくともその意味においては、新海誠は高畑勲の後継者と言ってよいかもしれない。そして、社会を語っていくのであれば、「巻き込み型」を脱却していく可能性も十分にあるだろう。
その意味において、いつか新海誠の「クソリアル」なファンタジー映画が、「巻き込み型」を脱却したときに、どんな映画となるのか、とても楽しみなのである。

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