すべては“泣く”の代替であること
大学生のころ、表参道にある某有名結婚式場でアルバイトをしたことがある。
服装・髪型やドリンクの注ぎ方、配膳の仕方など、色々細かいルールがあったけれど、これだけは守れと教えられたのは「絶対に泣いてはいけない」だった。
友人代表スピーチや、両親への手紙。様々な感動ポイントが盛り込まれている中でそれを守るのはなかなか辛いものがあったが、悲しいかな人の感性は麻痺していくもので、何度か数をこなすうちに淡々と業務を進められるようになった。「泣いてはいけない」のルールは、かろうじて守れた。
結局そのアルバイトは、3ヶ月ほどで辞めた。
辞める前、ここで式を挙げるといくらかかるんですか、とマネージャーに聞いてみると、「高級車が1台買えるくらい」と言われた。車に興味のない私は、未だにそれがどのくらいの金額を指すのかわからない。
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「最後に泣いたのはいつですか?」と聞かれて、即答できる人は少ないんじゃないだろうか。
数ヶ月前、いや、数年前……?「覚えてない」という人も多そうだ。
大人は、泣かない。子どもの頃から、なんとなくみんなそう思っている。だから、親や先生が泣くのを見るとびっくりする。私も、20年前に父方の祖母が亡くなったとき、初めて父が泣くのを見て驚いた記憶がある。
社会人になれば、会社で泣くのはご法度だ。先述のアルバイト先のようにルールとして定められている場合もあるし、暗黙の了解でなんとなくそう決まっていることもある。
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最近、泣いてばかりの新生児の相手をしながら、「私たちはもともと“泣く”だけを持って生まれてきたのになあ」と、ふと思う。
仲のいい友達でも、そういえばあの人が泣いたところを見たことがないな、という人は意外と多い。
みんなの“泣く”はどこへ行ってしまったんだろう。
たぶんそれは消えてなくなったわけではなくて、いろんなものに代替されているのだ。
たとえばことばに代替されたり、作り笑顔に代替されたり、暴力に代替されたり。“泣く”はいろんな形に散っていく。歌を歌ったり、仕事を頑張ったり、絵を描いたり、そういう代替の仕方もあるだろう。
それから、夜中に電気を消したあとの自室でこっそり泣いたり、トイレの個室や人通りの少ない帰り道で涙を流したり、映画館で数年分の涙を発散させたり、そんなふうにみんなバランスをとって生きているんだろう。
すべての根底は“泣く”で、私たちの行いは全部“泣く”の代替なのだ。だから私たちは、楽しいときも幸せなときも、いつだってちょっとだけ悲しくて寂しい。
泣くことしかできずに生まれてきた者として、目の前にいる人が“泣く”をどんなふうに代替しているのか、ほんの少しでも想像する時間を持てたらいいなと思う。
「泣いてはいけない世界」を生き抜く同士として、そうやって心の中でお互いをいたわりあって、やっていけたらいいなと思う。(個人的には、別に会社で泣いたっていいじゃんと思っているけどね)
あしたもいい日になりますように!