映画的思考と、小説的思考(ムーンライトを見て感じた「何からメッセージを読み取るか」という話)
この前、映画「ムーンライト」を見た。
結論から言うと感想は「うーん…」
あの行動に到るまでの感情の変化が見えないとか、あの態度の変わり方が理解できないとか、えっそこで終わるの?とか、納得できないことが多かったのだ。
鑑賞後、他の人の感想を聞いたりWEB上でレビューを見ているうちに
みんな映像や表情からコンテクストを読み取るのがうまいなあ…!と驚愕した。
「あの行動に〜〜という気持ちが現れてる」「あの表情が全てを語っている」などなど、
いやいやいやそこまで読み取れないよ、という自説のオンパレードだ。
すごい。素直にすごい。
つまりは、誰かが発するメッセージの受け取り方というのは、人それぞれなのだなあということだ。
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たとえば、友人が新しい恋をしたことに、表情や服装の変化で気づく人もいれば、ささいな一言やメールの文面で気づく人もいる。
「実は好きな人ができてね」と言われて初めて気づく人もいる。
ある人の行動ひとつを見て何かの予兆に気づいたり、一瞬の表情の変化を見逃さない人は、「映画的思考回路」を持っている、と呼べる気がする。
つまり文字や言葉の情報を含まない、ビジュアルから何かを汲み取ることに長けている人だ。ぶつ切りの場面情報を一本につなげるのがうまい人とも言える。
たとえば、友達が撮ったある人の写真を見て、「この人のこと、好きでしょ」と当てちゃうような。
他方、言葉や文字情報からキーメッセージを汲み取るのが得意なのは、「小説的思考回路」と呼べるんじゃないだろうか。
やわらかい笑顔で「また連絡しますね」と言われて「次はないな」と判断できる人。「I love you」を「月がきれいですね」と訳すことにそこまで違和感を感じない人も、こっちであるような気がする。
両方とも得意だという人も、きっといるんだろう。それはそれで、入ってくる情報量が多すぎて、生きるのが大変そうだ。
ふとそんなことを考えた。
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そう考えてみて、いろんなことが腑に落ち始めた。
自慢じゃないけど、私は写真を撮るのがめちゃくちゃ下手である。
これはたぶん、ビジュアルから意味を読み取るのが苦手だからこそで、その結果、ビジュアルに何らかの意図を込めるのが下手、ということじゃないだろうか。
反対に、詩や短歌からストーリーを想起したり、小説の登場人物にがっつり感情移入するのは、わりと自然にできる。
高校時代、勉強はダメダメだったけれど、現代文と小論文だけは得意だった。
“雪の中で男の人が、電車に乗って去っていく女の人を見送り、ホームに立ち尽くして地面に落ちる雪を眺めている” というワンシーンを見ても、私は「ああこの人は泣きたいんだろうな」とは思わないかもしれない。
「君が去ったホームに残り、落ちては溶ける雪を見ていた」という文字列を見るほうが、彼が泣いている情景を想像できる。
先日、知人の映像ディレクターから、
「“空になったコーヒーカップ”という1カットに、どれだけの意味を込められるか」
という話を聞いた。
カップに残ったコーヒーの乾き具合から時間の経過が表せる。
カップのデザインから、その人の年齢や性別、趣味趣向がイメージできる。
カップの置き方やカップの周りにあるもので、その人の性格が表現できる。
……などなど、「この1カットに力量が出るんだよ」という話を聞いて、ほおーと思った。
その1カットを見ても、私には何も読み取れなさそうだ。
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だからどうしたというわけではないのだけど、
もう少し映画的思考回路も鍛えたいなと、ふと思った。
映画を見ることや、絵や写真を見るのは好きだけど、そこから抽出できていないものがたくさんある気がするのだ。
誰かが本当に伝えたいことに気づかず、無意識に人を傷つけていることだってあるかもしれない。
映像や写真の勉強、してみたいな。
あと、「ムーンライト」見た人の感想がもっと聞きたいです。
あしたもいい日になりますように!