さよならバックパック。と、母でない私
最寄駅前のミスタードーナツでこれを書いている。
深夜1時まで開いているから、夜どこかにふらっと出かけたくなると、ついここへ来てしまう。
カフェインレスコーヒーがあるのもいい。食べようと思っていたエンゼルクリームは売り切れていたから、2番目に好きなゴールデンチョコレートにした。
カウンター席には、男性の1人客が3組。均等に間を空けて座っている。電車の座席もそうだけれど、こういうとき、誰かと隣り合わないように座ってしまうのはどうしてだろう。
向かいのテーブルでは、私よりもちょっと年上であろう女性3人組(一人は見事なドレッドヘア)が、ベッキーと川谷なんとかの不倫について話している。
私は、リビングに置き去りにしてきたボロボロの青いバックパックのことを考えている。
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20歳の頃から使っているそのバックパックを、ついに捨てることにした。
今から約10年前、3ヶ月ほどの長旅に出るのをきっかけに、いとこから譲り受けたものだ。
先週、千葉から母が訪ねてきて、一緒に部屋の片付けをした。
「これ、そろそろ捨てようかな」「うん、捨てれば」
土ぼこりで茶色くなったボディに、裏のビニールが剥がれたカバー。物置と化した6畳間にここ半年ほど置きっぱなしになっていたそれは、久しぶりに見ると驚くほど古びていた。
東南アジアのスコールでびしょ濡れになり、おんぼろバスの荷台でカラコルムハイウェイの埃風を浴び、夜行バスの荷物入れで何度も夜を越え、ときには空港のベンチで枕代わりになってくれたバックパック。
ああもう嫌だ、と逃げ出したくなったとき、あの中に荷物を詰め込んだらどこにでも行けた。
知らない街で最初に入ったカフェで、テーブルを挟んで大きなバックパックと向き合い、さあこれからどうしようかと、まっさらな頭で考えるのが好きだった。それは自由の象徴だった。
今、あのバックパックに荷物を詰めて、東京駅に向かって、夜行バスに飛び乗ってどこかへ行ってしまうのもいいなと思う。羽田空港へ行って、飛行機でもいい。
だけど今それは、妄想の域を出ることができない。
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私はもうすぐ母になるらしい。
早ければ来週、遅くともあと数週間。
“母でない私”は、もうすぐいなくなってしまう。
朝5時の渋谷。ベトナムのぬるい夜風。終電後のタクシー。川沿いで飲んだスミノフ。大音量のドライブ。深夜、一人きりのオフィス。行き先を決めない旅。
“母でない私”が見てきた景色たちは、もうすぐどこかへ行ってしまう。
「ねえ、もし私が、毎日Facebookに『今日のベビたん❤』みたいな投稿する人になっちゃったらどうしよう」
3分の2くらい本気で友達に相談したら、「でもそれはそれで、いいことじゃない」とたしなめられた。
そうなのだ。何も悪くないし、それはそれでいい。人は変わるものなのだ。
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バックパックを手放した私は、きっと今とは少しだけ違う人間になるだろう。
「◯◯くんのお母さん、」と呼ばれるのにもすぐに慣れて、
安い服で浮かせたお金で教育費の積立なんかしたりして、
保育園やら保護者会やら、そんな単語を口にするようになって、
きっと私は、ちゃんと、普通に、母になるのだ。何も悪くない。
手放してしまう景色の代わりに、一歩進んだあとにはまた新しい眺めがあって、それはきっと、思った以上に素敵なものなんだろう。
だけど、たとえば卒業式の寂しさをおぼろげにしか思い出せないように、
初めての失恋の悲しさがいつの間にか消えてしまったように、
「働きたくない」という学生に「社会人も意外と悪くないよ」なんて言えちゃうように、
ただ、手放した景色のことを、自分でも気づかないうちに忘れていくのだろう。
この先何が起ころうと、“私”は続く。全部は地続きだ。過去がプツンと切れてしまうことも、明日いきなり他の星に飛ばされることもなく、ただ続く。その中で誰かと出会ったり別れたり、何かを得たり忘れたりする。
カウンター席に座っているのは、1組のカップルだけになった。向かいの席の3人組は、ネイルやメイクの話に花を咲かせている。
ミスドのトイレは、福岡のおばあちゃんの家のトイレと同じ匂いがした。芳香剤だろうか。
いつか、深夜に食べたゴールデンチョコレートのことや、10年を共にしたバックパックのことを思い出せたらいいなと願って、これを書いている。
これまで見てきた景色のこと。これから見られなくなる景色のこと。いつか上書きされてしまういろんなこと。
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今住んでいる街では、月曜日と木曜日に燃えるゴミを回収する。だから本当は、月曜日にバックパックを捨てることもできた。だけど3日間だけ先延ばしにすることにした。
さよなら青いバックパック。
さよなら母でない私。
おめでとう母になる私。
あしたもいい日になりますように!