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開会式の悔しさ。

今日大学時代の友人と話して、TOKYO2020のオリンピックの開会式ついて、意見が一致し、非常に盛り上がった。

日本が行ったオリンピックの開会式はメッセージ性が薄い、日本の行ったオリンピックの開会式は微妙だった。

微妙を通り越して、世界にアピールする日本の文化があれかと、悔しい。ただ、それだけ。

なぜか。
先ほどにも書いたが、日本の文脈を無視した開花式のパフォーマンスは、あまりにも海外へのアピールに徹した薄っぺらさだったのだ。

例えば、私はロンドンオリンピックの古代から産業革命、そして現代のポールマッカートニーに繋がる文化の継承を見ることができた。オリンピックは過去の文化からの積み重ねなのだと、痛烈なメッセージを感じる、深みのある開会式だった。

しかし、TOKYO2020はどうだったかというと、江戸モチーフの東京消防団が急に板を携え出てきて、結果板の上でタップダンス。
歴史表現はこれが唯一。

紀元3世紀(所説あり)から現代まで脈々と続く歴史が長さは、どこにいった?国粋主義者ではないが、日本のもつ歴史表現は、ここまで浅はかなものしか用意できないのか?
世界中のどこまでも敵に作らないために、気にした結果、何もできず、こんなものしかできなかったのか?

ここまで怒っている、過激な表現を使っているのは、理由がある。

もし文化の文脈とメッセージ性に富んだMIKIKOさん案、私が大好きなリオ閉会式の椎名林檎さんチームがそのまま採用されていればと、無念でならないのだ。

なんだかんだ、今まで母国は、自国では問題を抱えつつも、内部の職人の力がモノを言い、なんとかしてきたと思った。
しかし、今回、碌でもない電通の重鎮どもが介入し、国際大会の場では国の恥を晒した件、本当に許せない。

踊らせる子供達は肌の色と目鼻立ちが違う人たち、最後の大坂なおみさん、露骨に薄っぺらい多様性のアピール。こいつらは、歴史と文脈もろくに知らない、表面的な人種のことしか考えていない連中なのかと心から思ってしまった。

ああ、日本の考える多様性とは、同じ空間に別の見た目を持った人間を集めればいいのかと思った。

この人たちは、国内にある、アイヌや琉球などの多様性に目を向けたことのないのだと、目に見える多様性というものを作って我が国は進んでいるぞとアピールするのに、共感性羞恥を感じた。

国外の入場更新で、伝統衣装アレンジの服を着る彼らを見て、より思った。

こんな人文学の程度の低い理解しかない人間ばかりに溢れるのも、まさに歴史教育の敗北、その意義が問われるのではと思う。

とにかく、とにかく、悔しい。
コロナの奴め。

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