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母のこと

私の実家は千葉県北西部の某市。今は80代後半の両親がまだ健在で、二人で暮らしている。きょうだいは7歳上の兄がひとり。兄家族は浦和に、私は同い年の夫とふたり、都内在住。

母は聡明で、こどもの頃の私にとってはいつも新しい光をもたらしてくれた。博識で、新しいものには何でも興味を持ち、今みたいにネットで何でも調べられない時代に、秋葉原で最新の家電を買ってきたり、どこからか見つけてきた便利グッズ的なものはいつも家にあった。

いつも明るく楽観的でお洒落だった母が、少しずつ変わり始めたのは80才を過ぎた頃だろうか?一緒に暮らす父に難癖をつけ、堪りかねた父からのSOSもあり週末に実家へ行くと父や環境への不満、今の不遇を嘆く様々な言葉の数々。

冷静に判断して母の論理は破綻している。過去の記憶は鮮明ながらも、事実は多分に歪曲されている。私は仕事でイラっとすることはあっても、キレそうになるのは実家で母の話を聞いている時だけ。でもすぐに反省するのですが。

年末に実家の大掃除に行き気が付いたことがある。掃除ができない→片付かない→捨てられないのは、仕分けができないからなのだと。断捨離の第一歩は要不要を見極めることだが、私の実家は、様々なものが色んな場所にとっ散らかっていて、例えばダイソンのコードレス掃除機が2台出てきたり、ハサミが5個あったり。おそらくどこにしまったかわからなくなり、新しく買ったのであろう。

まずは仕分けして、同じ物を集めて可視化して、ひとつひとつコレはいる?要らない?て聴き続けて半日。要らないものは何一つなかった。それでもわからないように収集日前にゴミ袋2つ分ぐらいは持って帰ったが(そうしないとゴミの中から出して元に戻すので)年始に行った時には全て元通りに。ああなんでこんなに捨てられないのだろうか?育った時代だけでは説明がつかない、これが老いるということなのだろう。

実家の片付けを巡って、母との静かな闘いは現在進行形だが、「仕分け」って、生活の基本だなと気づいた。仕分けができない→判断力が鈍る→どうでもいいと思うことがふえる→周りからだらしない人だと思われる。というように。

私はできる限りシンプルに過ごしたいから、ひとつ買ったらひとつ売るか捨てる。もしくは消費したら買う。不要な物を見かけるとすぐ売るか捨てるかの二択しかないけど、母にはその見識を強要はできない事は理解している。それでも、残り少ない人生を心地よく生きて欲しいと願っている。家族以外の人に、ゴミ屋敷などといわれない為にも。
#母のこと #コラム #断捨離 #実家問題 #小さく暮らす

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