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言葉

✳︎この記事は個人の感想です。


私は韓国語が分からない。BTSのファンなのに。
そのため、テテのありがたい言葉を理解するのはいつも、ありがたい翻訳越しとなる。
訳して頂いている言葉により一喜一憂する。

メンバーの話した言葉の主語や目的語があいまいな時、翻訳するかたによって数通りの意味となっていることもあり、こればかりは正解はメンバー本人にしか分からないため、全ての可能性としてありがたく頂戴する。その後、自然と、自分の中でしっくりと来たほうの意味が残っていく。

そのようなとき、言葉の奥深さを改めて実感する。
言葉というのは本当は、同じ言語を話す家族や親友にさえ、自分が思っている意味が100%では伝わってはいないのかもしれない。自分が「伝えた」と思い込んでいるだけで、「分かってくれない」ではなく、そもそも伝わってもいないのかもしれない。

みんな、実は80%くらいの意味で理解し合いこの世の中は回っているのかもしれない。

偶然意味が通じて、なんとなく生活が回っているのだとしたら。そして実は、それでいいのかもしれない。それが上手く生きる秘訣であり、その方が心の逃げ道がある分、優しさが生まれて行くのかもしれない。

テテに出会い、その考えはより一層深まった。テテの中の言葉はふわふわだ。とても綺麗な意味を持ち、儚くファンタスティックだ。世間ではネガティブに捉えられる言葉も、テテの中ではまた違う姿をしていて、その逆もあるだろう。

言葉の意味は、人によって、実は含むものが違う、もっと広く深いものだということをテテが教えてくれた。

だから私は、翻訳するかたの人生や個性が、それぞれの文から滲み出ているのを発見した時、とても興奮し、嬉しくなる。

テテ独特の、言葉の輪郭がはっきりしていなくても、くっきりと見えてくる世界観。おぼろげに通じて来る空気感。その言葉の世界の香りが伝わって来るテテのその、あいまいな優しい、でも芯のしっかりした世界にふわふわ浮かぶのが大好きだ。
「その雰囲気が好きだからこの人が好き。」

ひょっとすると、「好き」と言う気持ちは、80%の『言語で説明がつく世界』と、残り20%の『言葉にならない希望や期待』で出来ていて、何かあった時、最後の最後にその人の「好き」を引き止める力は、言葉では説明がつかない残りの20%の方なのかもしれない。
そして、私はその20%の世界に暇さえあれば遊びに行ってしまう。とても心地が良いし綺麗だから。
難しいことは分からない。『なんとなく好き』が自分の中の判断材料になっていて、その『なんとなく』の世界を美しく彩っている人にどうしようもなく惹かれる。テテがまさにそうだ。テテの言葉はその世界から生まれていて、おそらくその言葉の意味を100%理解しているのはテテ本人しかいないが、私はそこにある「なんとなく」感じる空気が大好きなので、結果、テテが好きだ。彼は有無を言わさず美しい世界に住んでいる。


この『言葉とは』という永遠の課題を、さらに深く考えるきっかけを、ナムさんがある夜にプレゼントをしてくれた。
この夜のナムさんは、ヘイター(アンチ)の話しなど、とてもセンシティブかつ本心に近い大切な話しをしてくれていた。とても格好良かった。この夜の、言葉以外の空気で自分をさらけ出してくれたナムさんに、私はどうしようもなく惹かれた。

ベガスコンの夜の1人Vライブ。


「たまには英語で話す方が本当に楽です」

ナムさんのこの言葉をマイナスに取る意見も少しばかり目にしたけれど、私にはそうは思えず、英語を話す時のナムさんのペルソナ(人格)とはなんだろうと、この日からずっと考え続けた。言葉や文字にして、自分の葛藤を頻繁に伝えてくれるナムさんの正直さと誠実さは、誰かを傷付けるためには存在していない。

きっとこの日にナムさんが語った、いつもよりも深刻な話は、世界各国の言語で訳された時に生じるニュアンスの相違や言葉の綾が生まれにくい「世界共通語の英語」を使う必要性のある内容だったのかもしれない。

思いの強い母国語を使った時に、そういった「言葉の綾」が生まれて誤解されてしまうのはとても悲しい。ナムさんの人生から彩られた意味で作られる母語(韓国語)は、必ずしも他の人に100%同じ意味で伝わるとは限らない。同じ人生を歩んで来た人はいないのだから。
そんな時、第二言語として学んだコトバ(英語)を使えば、感情を言語化する段階で自分の思いが抽象化されるため、その言葉に対する自分の細かな思いが淘汰され、万人に共通の言葉へと変わっていく。自分の心の揺れるひだにより思ってもみなかった誤解を生むことがある母国語よりも、学んで覚えた英語は一度記号化される分、心のひだも少なく、読み手による解釈の相違が軽減されて安全だという結果になるのかもしれない。

「韓国語で話すとちょっと慎重になる感じがあるけど、英語で話すと 『大した事じゃないですよ』。こう(ラフな様態に)なるけど韓国語で話したら 『こんにちは』『本当にきてくださってありがとうございます。』こう(慎重になると)いう違い」と話したナムさん。

学んで習得した言葉ならば、自分の言葉と文字の間にワンクッションが置けるため、母国語よりも一段階、心の柔らかい部分をガードしながら話す事が出来る。

このワンクッションを置く作業をすることで、自分やアミを守る術にもなるかもしれない事を考えると、それはナムさんの優しさでもあり、英語で話す方が確かに気持ちは楽だ。
そう考えると、逆にナムさんが韓国語で話す時、その心の柔らかい部分を見せてくれているようで、とても素敵なドキドキを感じるようになった。

その人が持つ母語の単語の意味は、一つ一つがその人の人生から作られていくけれど、のちに学んだ言語になると、それは実体験や体感の伴わない習得された言葉になるため、自分の希望する別人格を乗せ易くなる。

英語は、「誤解された言葉で人を傷つけるかもしれないという小さな心配事」に囚われないで話す事が出来るラフなペルソナ(人格)をナムさんに与えたのかもしれない。


おそらく私は、バンタンが何を言っても嫌いになる事はないだろう。残り20%の「好き」が、彼らのペルソナを補い肯定してくれる。悪い解釈の話を聞いたとしても、「それは何かが違うんじゃないかな」と私の中の20%が、残りの私に彼らの優しい記憶を思い出させてくれる。

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