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私はネガティブなのにポジティブ〜病室の窓からいざパリへ #創作大賞2024 #エッセイ部門

人生を手術する


空の青さは遠い日の思い出ではない。 
今そこにある。

ふと見上げた空をそのまま受け止められるか、
目を背けたくなるか。

目を背けたくなる時、それは、子供の頃に見ていた景色だけが残って漂っているような、もう空以外の時間は朽ちてしまったかのような、自分だけ置いて行かれたような、そんな感覚になってしまった時。

そして空から逃げる。空以外の「失ったもの」がありありと見えてしまうから。そこから目を背け、蓋をし、わざと感覚を曇らせる。

すると空は泣き出してくる。
それが優しくて、泣けるほど美しくて

あぁなんだ、空の青さはずっと変わってなかったんだと。鈍くなった感覚に温かいひかりが射し込んでくる。白い雲と共にゆっくりとまた時間が流れ始める。



朝、自分の部屋に「行ってくるね」と言って家を出た。
母と一緒。少し寝不足。

部屋着と本を入れたスーツケースがパンパン。
持ち手を握る手のひらにずっしりと重みが伝わる。「入院は旅行気分で行こう」、と一人決めたせいか、気がついたら普段、家でダラダラする時の癒しグッズをこれでもかと詰め込んでいて、この重みによっていかに私がインドア生活に命をかけていたかを思い知り、少し笑ってしまった。

しかしながら母も私も慎重、真剣、少し無口だが悪い気分ではない。「とうとう来た」という脱力感にも似たようなすっきりとした気持ち。

青白い空気が黄色い光に包まれていく時間帯。世界は相変わらず綺麗で変わらぬ風景だったので、「いつもと同じ朝だ」と安心する。

私はこの日、手術を受ける。

母は数日前から、おそらく私を心配するあまり、少し頭が混乱してしまっているようで、自分が置いたものをどこへやったのかすぐに忘れてしまうようになった。

「物忘れが酷くなっちゃってやーねぇ」

と母はおどけていたが、私は知っていた。
この物忘れは、娘を心配するがゆえに動揺していることの現れだと。

心配をかけて申し訳ない気持ちでゆらゆらしながら、その気持ちを伝える心の余裕はまだ無かったから、気付いていないような、涼しい顔をしてやり過ごした。

朝の10時前、家を出て、歩いて1分足らずのタバコ屋が見えて来た。
おばあさんがせわしなくカラフルなタバコを並べている。ふと時間が気になった。ここから病院までは1時間ほどだ。腕時計を忘れてしまった私は母に時間を尋ねた。予約は11時。

「今何時かな」
「11時ちょうどよ」
今11時ならそら大遅刻やんけ!
と思いながら
「10時でしょ」
と少し冷たく言ってしまった。
お母さん、まだまだ混乱しているなぁ、と思った。私なら大丈夫だよ。

私はこの日、健気なひとつの臓器と今生のお別れをする。持病のあまりの激痛に耐え切れなくなり、すぱっと決断したのだ。今まで沢山頑張って来てくれたから、感謝の気持ちこそあれ、未練は無かった。

母に私はどう見えていたのかな。
私のような清々しい気持ちでは無かったのだろう。
10時を11時だというほどに動揺していた母。
専業主婦で、子供を三人立派に育てて来た。温かく優しく、家庭を守ることに24時間365日、命を懸けてきた。その母の瞳には、子供を産まない道が決まった私は一体どう映ったのだろう。

母が努め上げて来た人生のやるべき事から離れ去った娘の人生を不憫に思った? 不憫に思って混乱し、10時を11時だと言ったのかな?

いや違う。母が心配をしているのは、そんな「私の人生の行方」ではなく、そのことを私自身が気にかけていないか、という「私の心情の行方」だ。
似ているようで、とっても違う。
娘だから、感覚的にわかる。

母は、私がどんな状況でも幸せを見つけられる子供だと信じてくれている。その様な母と一緒に人生を歩んで来たから、なるようになる、という心持でいることが出来た。

私なら大丈夫だよ。と、手術が終わったら伝えよう。今はまだ私も怖いから、甘えたいから、何も分からない涼しい顔でいさせてもらった。
こうやって、こんな方法で、ちゃんと甘えているんだよ。

この時の私には、空の青さが眩しすぎた。
直視する勇気はまだ無かった。


重いスーツケースを抱えて電車に乗り込んだ。
朝の混雑のピーク時を抜けた、少し余裕のある車内には、丸み帯びた柔らかな光を顔面に受け、眠たそうに立ちながら揺れる乗客がおのおのの世界の中に浸りきっていた。

母がどこかに座れたらいいなと思った所で、ちょうど良く二つの席が空いた。

「あっ、お母さん、空いたよ」

と言った瞬間、母は

「どうぞ」

と、小さな男の子連れの若いママに声を掛けた。その途端、男の子は喜んで座席に飛び込み、若いママは可愛く遠慮をして、はにかんだ様子で首を横に振った。

それを見た母は

「ママも疲れるでしょ?座れる時に座った方がいいのよ。どうぞ」

と、我が子にでも言うかのような近しい口調で語りかけた。

若いママは微笑みながら軽くお辞儀をして男の子の隣へ座ると、小さなその子は嬉しそうにニコニコして、ママと母の顔を交互に見た。母も笑っていた。
その光景は、私を穏やかな心持ちにさせてくれた。世の中にはこんなに可愛い子供がたくさんいるから、うん、私が産まなくても大丈夫だよね、などと、私は何とも無責任なことを考えていた。

と次の瞬間、
母が電車から降りようとした。なんでなんで?
降りるのはまだ先の駅。

「お母さん、まだ着いてないよ」

「あれ!間違えた!」

危ない危ない。
母が私のせいでまだまだ絶賛混乱中なので、私は健気な臓器と過ごす最後の時間の余韻に浸ることを諦め、「お母さんを守らなくては、病院に辿りつくまでは」という、なんともゴールが近すぎるミッションを掲げることとなった。

目的の駅を降り、病院が近づいて来る。だんだんと肩が強張こわばって来た。やはり生まれて初めての大手術は怖い。足がすくむ。でも、でも、母となるべく穏やかに歩きたいな、と思った。母だって同じ気持ちかもしれない。よし!気持ちを切り替えよう。交差点の桜を指差して

「桜、綺麗だね」
と母に伝えた。母は
「そうそう、綺麗よね」と。

次にこの道を通る時は退院する時。母も動揺が終わり安心出来ている頃かな。もう桜も若葉に変わっているだろうな、と近い未来に想いを馳せた。

病院の隣にはイギリスの可愛い本屋があり、母と少し覗いてみた。そんな気分だった。こんな時でも本屋に寄れる私と母のお気楽さが大好きだった。

本屋の看板を見る。『The End』。
やだな、と思ったけれど、過去は終わりって意味かもと気持ちを持ち直す。

病院に着き、これからお世話になる愛しい病室に案内された。なぜ愛しいのかって、良い機会なのでホカンスをしてみたい思い、奮発して素敵な個室を選んだからだ。私はネガティブなのにポジティブだ。

あぁ、私だけのお城!とテンション爆上がりで手術着に着替える私を、母は何とも言えない不思議そうな顔で眺めている。ごめんね変な娘で。

そして、手術のためにツインテールにしなくてはならない規則があり、いい年してツインテールしながら、手術着の装いで病室の内装をスマホでパシャパシャ撮る私は、我ながらオタクな性格だなと思った。

そんな病室カメラ小僧で乗りに乗っていた時、バーンっとスライド式の扉が開いた。

あ、こんな感じで四六時中、誰かが部屋に入ってくるのね…

と我に返る手術2時間前。看護師さんから手術の説明を受け、オペ開始時刻まで母と病室でじっと待つこととなった。

私はベッドに仰向けで横たわり、窓から見える雲と空を眺めた。

「この手術をきっかけに私は次の人生へ行く。変わる。」

と、強く思い決心していた。
あの四角い窓のふちと、その中で揺れる空と雲を目に焼き付かせようと、じっと眺めていた。

約一か月前、担当医の羽毛先生から、私の健気な臓器について、

「残すことも出来ますが、残すとリスクがあります。」

と丁寧に優しく説明を受け、

「大丈夫。取ってください」

と即答した。我ながら決断の速さに驚いた。

診察の後、もしかしたら私無理しているかな。泣いたりするのかな?と覚悟して待合室のソファに腰かけたが、涙も全く出ず、なんやこれ。
何事もなかったかのようにスマホをいじり、家族や友達に報告していた。
むしろ晴れやかな気持ちだった。

それほどに酷い激痛の日々を終えられるのが嬉しかったことと、そして、ようやくこれで変われる、という根拠の無い期待感。
離婚を経験している私は、この女性の象徴のような臓器が持つ「こうあらねば」と言う、後付けされた独特のイメージに少しうんざりしていたのかもしれない。でもね、私の臓器はそこに存在しているだけ。そこにどんな意味づけをするかは、誰でもない「私」なのだ。

私の体から痛みもろとも自分を道連れに、体の外へ連れ出してくれる私の健気な子宮は、もはやヒーローでしかなく、そして大切な親友だった。
私の厄を全て持って出て行ってくれるような、そんな、ありがたい親友。

お別れの時にようやくその輪郭が見えて来た。私の一部で一心同体だった。私に痛みを与え、でもいつもその痛みも分かち合った。

過去には、子供を授かるために元夫と力を合わせて毎朝この親友と向き合った日々もあった。頑張った。だからもういいね。この人生で君とやれるだけのことはやった。だからもう、私は行くわ。強く生きるわ。君の分まで。頑張るから空から応援して。

と、広い海の真ん中からオールで強く漕ぎ出し小舟を出発させる、というような、爽やかなすっきりとした気持ち。
だから私にとっては、手術の日は新しい人生が始まる嬉しい門出の日だった。空を見る目線も高くなっていた。

看護士さんがノックをして入って来る。
ついに来た。母に、

「じゃあ行って来るね」

と告げた。母は椅子に座ったまま

「うん」

と。小さなリアクションだったように思う。




深い眠りから起こされた。

寒い。とにかく寒い。ガタガタ震えた。エクソシストの女の子のようにベッドもろとも震え上がった。全身麻酔から覚めると震えることがあるらしい。
母が私のそばでエクソシストの神父のごとくオロオロしているのが何となく見えたが、優しい看護師さんもきちんとよく見ていてくれているのが、朦朧とした視界の先に見えたので、私は安心して身を委ねていた。

「気分どうですか?痛いところありますか?」

と看護師さんに優しく聞かれ、呂律が回らないのが自分でも分かる話し方で

「痛いとこはないれすけろ、さむいれす」

と答えた気がする。

「凄く震えていて辛そうです」

母が通訳してくれ、看護師さんが電気毛布を増やし、ようやく落ち着いた。

「震えるのはよくあることだって」

と言う母は、自分自身も安心させたかったのかもしれない、私があまりに辛そうで。

落ち着いた私を見届けて、母は帰って行った。

ずっと様子を見ていてくれた看護師さんから

「夕飯食べられそうですか?」

と聞かれ、楽しみにしていたホカンス病室の豪華ご飯は一粒残さず絶対に食べたかったので、

「食べます!」

と元気よく言うと、

「おぉー!」

っと一緒に喜んでくれた。なんて優しい。
本当に良い病院に来れたな、と嬉しくなった。

この病院の先生や看護師さん達はことあるごとに褒めてくれるのだ。
術後はなるべく歩いたほうが良い、という友人や先生からの助言のもと、
常に病室内をウロウロ歩き回っていた。

そんな時、突然、バーンっと扉が開き先生や看護師さんが検診のために入ってくるのだが、
ウロウロ歩き回っている私を見ては

「お~!凄い!歩いてる!」

と手を叩いて褒めてくれた。

歩いているだけでこんなに褒められるなんて、一歳ぶり?小さすぎて記憶にない!

でへへへ、とツインテール(規則)で気味悪くにやける日々。幸せだった。

健気な親友は空へ旅立ったが、私の多幸感は間違いなく増えていた。
なぜなら、失うものが大きいと、その穴を埋めようと本能が働き始めるせいなのか、今まで見過ごしていた小さな幸せもたくさん見つけることが出来るようになるからだ。

会社の友人が持たせてくれたお菓子に、粉末のお茶、ふわふわのタオル。看護師さん達の明るい声、家族や友人からのLINEの振動、全てが私の幸せの音だった。

いつも側にあった優しさのひとつひとつが身に染みて、今回の大きなサヨナラは、私の曇ったフィルターを浄化する大切なきっかけとなった。これは空へ旅立った親友がくれた、大きな大きなプレゼントだった。

退院当日の日、4:30頃目が覚めてしまい、そこからあまり寝付けなかった。
入院生活があまりに幸せだったため、退院するのが寂しくなってしまったのだ。眠れずに、推し活仲間が入院生活用にと送ってきてくれた動画を見たり、窓の外の夜の木が揺れるのを眺めたりしていた。

少し時間が経ったら、少しずつ荷物をまとめたりしたが、ほとんどが本だったため、荷造りもシンプルなものだった。

早朝7:00過ぎに看護師さんが、退院までの流れを教えにやって来た。

「では、朝ごはんまでゆっくりしていて下さいね」と。

名残り惜しかったし、眠れないのに眠気もあったため、ツインテール(規則)の髪をほどき、最後のベッドに入って体に病院の毛布の感触を覚えさせていた。

するとまたバーン!っと扉が開き、羽毛先生が突然入って来た。

ベッドで、失う日々の寂しさに溺れながら最後のひとときを味わっていたので、突然の先生の登場に驚き慌てふためきアワアワしていたら、王子の様に、ベッドの下で膝まづいて、私の手術経過の説明を始めた。

私はベッドの上でゴロンゴロンしていたし、髪の毛はデンジャラスだし、一体この王子の話をどんな体勢で聞いていいのか分からず、とりあえず体育座りしたが、それも変な感じがして、ベッドの上から正座をして話に耳を傾けることにした。

慌てすぎて上の空だったので、何度も聞き返した。どうやら想像以上に大変な手術だったらしい。MRIには写らない内膜症もあったらしく、その手当ても同時にしたとのことで。

「これは手術するまでの日々、とても痛かったでしょう?この状態でよく頑張りましたね」

あぁ、きっと、先生こそ大変な作業だったろうな、と思い、改めて感謝の気持ちでいっぱいになり、心を込めて

「本当にどうもありがとうございました」

とお礼を言った。

すると羽毛先生は、

「画像を見た方が分かりやすいですよね」

とまるで家族写真を見せてくれるかのように、白衣のポケットからデジカメを取り出した。

「いやいやいや、いいです。いいです。大丈夫です!」

私は、親友が空に行ってしまったときの姿は見たくなかった。

心なしか先生はシュンとしたように見えたが、

その後ゆっくりと落ち着いた口調で、

「ぼーてさんのせいではありませんよ」
と。

ん?

「筋腫も内膜症も、何をしたからこうなる、というのは無い。これはぼーてさんが防ぎようがなかったことなんです。ぼーてさんのせいではありません。だから、ご自分の何かが悪かったのかもしれない、と思ったりする必要は全くありませんよ。」

と。

私は、手術が決まってから初めて泣いた。親友とお別れすると決まった時には出なかった涙が、溢れ出て来た。

先生の優しさに泣いた。

私は何も言っていない。自分を守るために考えないようにしていたことだ。

先生のこの言葉も「そのことを私自身が気にかけていないか」、という「私の心情の行方」を先回りした思いやりだった。

もちろん、病気になるのは誰のせいでもないけれど、人と違った人生を歩むことになるのはひょっとして自分に何かあるのではないか、と離婚してからずっと考えて来た。その結果、自分の悪いところも沢山見つけて、反省することが出来たけれど、それ以上に自分の人生を責めていた気持ちがあったかもしれない。今回のことは、その結果だとも思っていた。

そんな気持ちごと救ってもらえたような羽毛先生の言葉と優しさに、目に焼き付けた窓の空の雲が、全て流れて行ったような心持ちになった。

窓の外が素敵だ。ビルと、遠くまで見渡せる連なる屋根。向かいのデニーズの中は、早々と明かりがついて、温かな光の中で動く人々がいる。その隣の大きな木がサラサラ揺れるのを見ると、私はみんなに生かされているなと、切ない幸せな気持ちが溢れ出した。幸せに包まれていた。

この景色を忘れないように目を閉じ記憶に残して、その時の自分の気持ちもしっかり噛み締めた。もう、やり残したことはない、と思えた。


一階の総合受付で母と待ち合わせの約束をしていた。
待ち合わせの時間は10時だ。
ちゃんと10時に来るかな。11時と勘違いしていないかな…

10時少し前に母が入って来たのが見えた。
元気そうだ。良かった。いつもと変わらぬ優しい笑顔の母だった。

二人で病院の外に出た。
とても良い天気だった。気持ちが良かった。

タクシーに乗り込み、晴れやかな空の下、母は病み上がりの私を気遣い、率先して理路整然と惚れ惚れする口調で運転手さんに道案内をした。そこには10時を11時と間違える母はもういなかった。
もう後ろを振り返る人は誰もいなかった。



そして両親を、パリへ

「月が綺麗ですね。」逆立ちしてる女の子がいる。

二十代の頃に私がパリの夜の下にいた時とは違う自分。あの時の自分はもういない。

少し寂しくなった。

パリへ来た。なぜ?
手術を終え、「私は変わる。次の人生へ行く」
と決めた時、真っ先に思い浮かんだのが
「両親をパリへ連れて行く」
ということだった。

私はこれを、これをしないと絶対に後悔する。

失うものはもう何も無い。一文無しになっても全然構わないと思った。二人をパリに連れて行かなかったもう一つの未来で味わう後悔に比べたら、お金がない事など痛くも痒くもない。

両親はパリが大好き。
かつて私が留学をしていた頃、娘にパリを案内をして貰った、という記憶にしばし癒されることがあるようで、二人はその思い出に浸ることがあった。旅番組でパリの風景が現れると

「あ!ぼーてのアパートの近くだね!」
「このお店、こんな風だったっけ?」と、

幸せに、ちょっと得意げに話したりしていた。その後決まって「またぼーてに案内してもらいたいなぁ」と、言葉をこぼすのだった。

そんな父と母を横目に見ながら、
「二人が飛行機に耐えられる体力があるうちに連れて行かねば!」
と思いながらも、自分勝手な日々の忙しさにかまけて、どんどん月日は過ぎ去って行った。

ところが、青天の霹靂のような、今回の健気な親友との別れにより、これほどの別れを体験した私はある意味無双状態になり、「今だ!今しかない!」と決断出来たのだ。
親友が空から背中を押しくれた。


パリ。


私も大好きだ。都会と言えど、町全体が空想に浸っているような雰囲気がある。

パリの人たちは、車の扱いがとっても雑。車体がなんとも汚い。乾いた泥が模様の様についている。でも全然、汚れても構わない。気にしない。

汚れてますけど何か?だって移動手段じゃん。何か問題でも?って顔で運転してる。

かっこいい。

だよね、人生もっと優先すべきことがある。

もし熱心に洗車をする人がいたら、それはきっと、あくまで趣味を愛好してるだけで、決して他人からの目や身なりや見栄を張るためではないんだろうな。
いいな、そーゆーの。

パリの月夜の下で、さまざまな肌の色、さまざまな服装、性別も二つだけじゃない、そんな道行く人達を見ていたら、どこからともなくこんなセリフが頭の中に降ってきた。

「どんな服を着ても月が綺麗ですね、
君も綺麗ですね」

いつも空が変わらないように、月もただそこにいるだけ。何も変わらない。あなたも私も月の下では同じように美しい。

ホテルのベッドメイキングをしてくれる穏やかな人は、ウクライナから家族全員で避難して来たと話してくれた。

タバコが好きだと言うその人に、父は日本のタバコをプレゼントした。雑談の中にさらりと身の上話を織り交ぜる。皆んな何も言わないだけで、そういう背景は日常の中に沢山隠れていたりする。

皆んな頑張って笑顔でいるだけ。そのポジティブであらんとする強い意思。この世にこの意思に勝るものはあるだろうか。

手を繋いで歩く父と母


地下鉄のドアに戦いを挑んだ母

私の手術を、多くを語らず見守ってくれた母の「ど根性」が垣間見れた瞬間があった。

パリの地下鉄のドアは自動で開くものと手動で開けるタイプのものがある。

母はたびたび、パリジャンが手動で開けるさまに居合わせては「へ〜あーやって開けるのね」と感心し、注意深く見ていた。そんな母を見ても私は、「ドアがもの珍しいからだろう」とさほど気にしていなかった。

普段は何が起こっても、穏やかに「うふふ」でやり過ごす母だから、まさか、密かにドア開けチャレンジに闘志を燃やしているなんぞ思いもよらなかった。

それは帰国前日に起きた。

いつものように地下鉄で電車を待ち、ドアが開いた。父はサッと乗り込み、私も横着して人が開けてくれたドアから乗ろうとした。

が、その時、母は何を思ったか、わざわざ少し離れた、誰も開けていないドアの取っ手に飛びついた!

え?!

と思ったのも束の間、思いっきり下に下げている。違う違う、そうじゃ、そうじゃない、上だよ!と思い、

「お母さん!違う違う!いいからこっち!」と言っても聞かない!急にガンコ!両手で取っ手にしがみつく。父は唖然としている(ショックに弱いタイプ)。もう発車寸前で隣のドアも閉まりかかっている。とっさに母をドアから引き剥がし、隣のドアに強制連行した。
ドアが恋人か!

急いで車内に乗り込んだものの、扉に思いっきり挟まってしまった。

こんな時パリの人は優しい。唖然としている父の横で(ショックに弱いタイプ)、居合わせた人たち皆んな心配してくれ、「マダム、無理をしないで。」「大変だったねマダム」と優しく労わってくれた。

ドアに挟まっても母は「うふふ」と楽しそう。母強し。
「うーん、どうして開かなかったのかしら?」
と呑気に聞くので、
「逆に回してたからだよ」
と伝えた。

私は実は、手首が弱い母に、硬いドアの取手を開ける方法を覚えて欲しくなかったのだ。これに懲りてもうやらないだろうと思い、それ以上の事は言わなかった。しかしその数時間後、地下鉄がホームにやって来た時にまた母の目が光ったのを見逃さなかった。
そうはさせない!
と、母が飛びつく前に、さっと私がドアの取っ手を取った。

「お母さん!危険なパリの地下鉄で変なチャレンジしちゃダメだよ!」

と、もう一生言わないであろうセリフで怒った。

母は普段は穏やかでおっとりしているのに、突如よく分からない事に情熱を燃やすタイプ。私はすっかりその事を忘れていた。

そして最終日。
これが母のラストチャンス。一騎打ちの勝負の日。母はどーしても、どーしても!この旅行でこの挑戦に勝ちたかったらしい。

勝負の列車が目を光らせながら轟音とともに暗闇から現れた。母は誰も開けそうにないドアを瞬時に見極め、柔道家が相手の襟を掴むくらいの卓越した素早さで取っ手にくらいついた。スローモーションだった。残像が見えそうなほどなだらかな手で取っ手を上に上げた。そしてついに、「ガガガっ」と祝福の音をドアが鳴らして開いた。母は

「やった!開けた!お母さんが開けた!」

と背負い投げ直後の柔道家のごとくガッツポーズをした。

良かったね。ミッション達成して。
私はこんな母を見て、きっと、私が母と同級生だったとしても、友達になっていただろうなと思った。

戦いを終えた母


何はともあれ日本食な父


父は旅に出ると『母を訪ねて三千里』もとい『日本食を訪ねて三千里』なマルコ少年になる。海を越えても妻のご飯が好き。

やはり「うどん食べたい!」のうどん禁断症状が出た。そこで日本食屋さんへ行く。

パリジャンでごった返し。大盛況。日系の男の子がバイトでレジ打ちをしていて、背筋がピンとして思慮深い目でとてもかっこいい。幼い頃から自分のアイデンティティについて考えなければならない事柄に沢山出会うせいか、目線や雰囲気が大人びている。私も見習って背筋を伸ばそうと心に決め、父は美味しい美味しいと目尻を下げてカツ丼を頂いた(うどんじゃないんかい)。

別の日には、

「おにぎり食べたい!」。

地図でアジアの惣菜屋を調べ、梅、しゃけ、たらこのおにぎりを。至福の味わいだった。おにぎりはどこの国にいようと人を元気にする。調子に乗って、今度は老舗スーパーでおにぎり買ってみると、ご飯が酢飯だった。

「酸っぱい!腐ってる!」

と父。違う違う。

あぁ、おにぎりと見せかけた酢飯よ。三角に握られちゃったんだね。でもいいよ、それがパリにいる君の個性だよ。

母と父と、パリと。
また来ることが出来て良かった。

空の青さから自分だけが取り残されたのではない。空も月もいつも変わらずそこにいる。

ただそこにあるものをありのままに、そのまま受け入れるだけ。


それが会いたかった世界だった。


#創作大賞2024 #エッセイ部門


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