見出し画像

いつも「誰か決めてくれよ」と思っている。

私はいつも「誰か決めてくれよ」と思っている。誰かと一緒にご飯を食べにいく時、友達と旅行に行く時、あなたはどう思うかと聞かれた時、私は「なんでもいい、好きに決めてくれ。」と心から思っている。これは嫌味でもなんでもなく、本当になんでもいいのだ。相手からしたらなんでもいいが一番困るんだよ、と言われてしまいそうだが、本当に心からなんでもいいのだ。

自分が何かを選択したことによって責任を持ちたくないのだと思う。例えば誰かとご飯を食べに行った時、私がお店を決めてそのお店がとんでもなく不味かったらどうしようと思ってしまう。そういう点において、選ぶことには責任が伴うという感覚があるのかもしれない。(友達との食事ごときで責任が生じるはずもなく、たとえ不味い店に入っても相手が機嫌を損ねたりすることはほとんどないことはよくわかっているのだが。)だから誰かにおすすめしたりすることが苦手だ。自分はここのご飯を美味しいと思ったが、この人はそうは思わないかもしれないとか、自分はこの本が面白いと思ったけど、あの人は自分とは違う経験をしているはずだからこのシーンは刺さらないのではないかとか、そういうことをあれこれ考えてしまうのだ。それならば(相手にはハマらない可能性があるのなら)何も言わない方がいいと思って、そういったおすすめを自分から積極的にしたことはほとんどない。

そんな私にも生きているとどうしても誰かに何かをおすすめしなければいけない時はやってくる。地元の友達が福岡にわざわざ遊びに来てくれて「美味しいお店連れてってくれ」と言われたり。そんな時どうするか。調べたり、相手の好み、前後の計画から移動がスムーズに行くようにとかとかいろんなことを考えてしまう。適当にこのお店が有名だからとかでおすすめすることができないのだ。これはもう性分であるので仕方がない。もし何かを自分で選ばなければならなくなった時、一つのことを選ぶのにめちゃくちゃ労力がかかるのだ。だからこそ、些細なことについてはいつも「誰か決めてくれよ」と思っているのだと思う。誰かが決めてくれれば自分の脳みそを働かせることなく物事が進んでいくから。

しかし生きていれば自分で決めなければならない局面が必ず訪れる。そしてそれは往々にして「進路」と呼ばれる事柄についてのことだったりする。私は今大学4年生で、4月から今通っている大学とは別の大学院に進学する。つまり、就職をしないという選択をし、今いる大学ではなく別の大学の大学院を目指すということを選択したのである。自分の人生だって誰かが決めてくれたらどれだけ楽だろうかと思うけれど、それは自分の人生を手放したも同然である。そして何かを選ぶということは何かを捨てるということである。今の私はこれまで選んできたことの上に成り立っていると同時に、選んでこなかった無数の可能性の上にも成り立っている。今私は22歳、大学生。何かを選ぶことが怖い時がある。というか、何かを選ぶことによって何か別の可能性が閉ざされてしまうのを怖がっているようなところがある。野球部に入ったら部活でサッカーができなくなるように、何かを選んだ瞬間から「別のことをしていたらもっとうまくいっていたのではないか」という感情と常に向き合い続けなくてはならない。けれども人間はいつまでもあらゆる可能性を信じて何もしないでいることはできない。然るべき時がきたら、必ず何かを選ばなければならないのだ。どこの大学に行くのか、就職をするのか、どこの大学院に行くのか。どうしても何か一つを決めなければ前に進めない。

この「選ぶ」ということに関して最近思っていることが二つある。一つ目はいざ選ばなくてはならない状況になった時にできるだけ多くの選択肢の中から選ぶことができるようにしておきたいということである。大学にしろ企業にしろ、何かの組織に入りたいと思ったら大体の場合「試験」というものがある。そしてその試験は、誰もが入りたいと思う組織ほど厳しいものになる。そうした多くの人が入りたいと思っているところを自分が目指すことができる環境にいるということが、特に若いうちには意外と大事なのではないかと思う。もちろん組織の大きさとかランクなんてものはまったく本質的なものではないし、規模が小さくても、有名じゃなくても、素晴らしい成果をあげている組織というのは世の中にごまんとある。しかし、社会に出てもいない若者が、一発でそうした小さくても素晴らしい組織を見つけることができるかというと、それはとても難しいのではないかと思う。有名または大きな組織というのは、何かしらの部分で優れているからここまで存在し続けることができていると考えれば、まずは有名または大きな組織に入るということは、若いうちに大きく外さない方法としてアリだと思う。その方が後々何かを選択する時に、より多くの選択肢の中から選ぶことができる。「勉強しなさい」という言葉の真意はこのことにあるのではないかと思う。日本においてはいまだに学歴というものがある程度幅を利かせている。そんな状況においては、たとえその時はしんどくても「勉強」していわゆる高学歴のステータスを手に入れておくというのは、長い目で見るとより多くの選択肢から何かを選ぶことができる可能性が上がるという点において有効であると思う。

二つ目は選んだ瞬間には正解なんかなくて、その選んだことを自分が正解にしていくかどうかしかないのだということである。当たり前だが現実世界に「正解」なんてない。あるのは事実と、それをその人がどう感じるかということだけである。同じ事実を目の前にしてもそれをどう感じるかは人それぞれ。そう考えると他人の人生に口を出す権利なんてないし、自分の人生をあれこれと言われる筋合いもない。結局は自分の人生であるのだから、選びとったことを自分が「あの選択は正しかった」と思えるようにこれからの日々を生きていくしかないのだ。たとえそれが家族であっても恋人であっても、自分の人生の主導権を他人に握られてはいけないし、自分の人生には自分で責任を持たなければならないと思っている。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?