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「花束みたいな恋をした」は恋愛映画の顔をした、人生についての話だった。

「花束みたいな恋をした」をみた。

いわゆるサブカルチャーが好きな麦と絹が出会い、別れるまでの話。2人ともやりたいことをやって生きていきたいと願うが、次第に「社会に出ろ」「現実を見ろ」という言葉が選択を迫る。

麦は夢を諦め社会に出ることを選び、小説を読んでいた手にはビジネス書が握られるようになる。対して絹は小説、映画、舞台などを愛し続け、「向いてないから」と言って、簿記の資格まで取ってはじめた仕事を辞めてしまう。これらのシーンは、今、自分の目の前に広がる2つの将来を見ているようだった。

僕はアウトドアが好きでそればかりやっている。山に登ったり、岩を登ったり。映画や小説、エッセイも好きで、アウトドアや自分の生活を綴った文章を書いて、就職をしなくても物書きとして生きていけるだけの力を持ちたいと願っている。しかし、親や友達からは「就職はした方がいい」と言われている。

それはまるで、2015年、まだ大学生で絵を仕事にしようとしていた麦を見ているようだ。奇しくも僕は今大学生で、まもなく就活の季節を迎える。

作中の麦はその後イラストを描く仕事を始めるが、単価を下げられ、それでも我慢し、耐えられずに少しでも歯向かうと「いらすとや使うから。お疲れ。」と言われてしまう。そしてついに就活をはじめ、物流会社に就職をする。

就職をしてからの麦は、あんなに好きだった映画や漫画や小説から距離を置き、「パズドラしかやる気わかないんだよね」と曰い絹と衝突する。絵具は本棚の片隅でほこりをかぶっていた。

就職をするか、ひもじい思いをしてでも自分のやりたいことをやり続けるのか。このことは、就活を目の前にした大学生のみならず、ほとんどの人が直面する問いなのではないだろうか。そして、この答えのない問いを坂元裕二は恋愛映画にのせて私たちに問いかけてきたのではないか。そんなことを僕はこの映画を観て感じた。

それは、就活が目前に差し迫っている今だからこそ感じたのかもしれない。もし自分が好きな人がいて恋愛をしていたら、この映画を純粋にラブストーリーとして観ていたかもしれない。もし自分が大恋愛をして別れた経験があったら、この映画を観て別れた彼女を想っていたのかもしれない。

映画や小説のいいところは、誰もが自由に味わえるところだと思う。就活間近の僕はこの映画を人生の問いであると感じたし、隣に座っていたあの人は、過去の恋愛を思い出して涙していたのかな。

そんなことを思いながら、帰り道のツタヤによって文庫版の小説を買った。映画の半券をしおりにして読もうと思う。


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