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宗教について2


以前の記事で自分が宗教嫌いであること、宗教の規範に頼らずに各個人で道徳心や倫理観を持てるようになればいいと書きました。この思いは変わらないのですが、最近X上の投稿を見ていて、宗教が存在する意味について少し考え直すようになりました。

れいわ新撰組を支持する人のポストを見ていると、教祖の発言や行動を全肯定して外部の言論に耳を貸さず自ら考えていなさそうな人達の多いこと。想像を絶する。

しかし、自分のこれまでの経験を振り返れば意識していなかっただけで、自らの道徳や論理的な思考を形成しえなさそうな人達とたくさん接してきている。見落としていた。

下っ端現場監督時代に話の通じない作業員なんていくらでもいた。職長でも自分のプライド最優先で判断をゆがめたり派閥争いに終始したり。

選挙事務に携わればそもそも選挙の仕組みが分かっていなかったり、選挙ポスターの顔を見て誰に入れるか考えていたり。

ネットゲームの中では一生一人でしゃべっている奴がいたり、やっぱり日本語が通じないやつがいたり、自分が優遇されないとキレるやつがいたり。

皆人権と選挙権のある日本人で、尊重すべき一個人としての人格を持っているが、現代の社会に十全に適応し、物事を考え、判断する能力があるかといえば、無い。と思う。(自分にはその能力がある前提でものを考えています。)

そういう人が自ら倫理や道徳を確立できるか。出来なさそうと思ってしまう。そうすると、ここで宗教という枠があれば、外部から行動規範を与えられ、それが社会に適応するものであるのであれば、宗教によって生きやすくなる人はいるのかもしれない。そして社会への負荷も減るのかもしれない。

ここで重要なのは、規範を与えるべき宗教が、善良で、その社会に適合したものであること。れいわのようなおかしな政党や危険なカルト教団に規範を与えられたら、まとまった方向性を持って社会に負荷をかける集団となってしまう。

そうならないためには、れいわの様なものに規範の必要な人々を絡め取られ無い様に受け皿があれば良い。しかし私が思うに、宗教活動やそれに類する集団の活動動機は営利目的や狂信的な信仰によるものなので、期待はしない。

宗教の存在に価値を見いだしつつも、自分の見える範囲では、この価値を持った賞賛できる様な団体は認められない。自分の見識が広まればまた考えも変わるかもしれないと思いながらも、宗教に対する忌避感は未だ拭えない。

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