お前も真の男ならば『レイゼロ』を観て表現規制について自分なりに思考したあげく発狂しろ

 まず最初に白状しておくと、俺はこのコンテンツがアニメとスマホゲーのハイブリッドななんかであることを知らず、ゲームの方は一切触っていない。アニメを見ただけである。ゆえに『レイゼロ』の世界を事実上半分しか知らないと言っていい。

 さらにスマホゲーの方は二年前にもうサービスを終了しており、今さら履修など決してできない状況である。

 しかし、アニメのほうはまだyoutubeで無料配信されているのである。

 さて、『レイゼロ』とはどういう作品か。

 なんかこう、ホログラムがすげー勢いでバーチャルでアレな世界であり、あのー、なんて言うんですか、AR(拡張現実)って言うんですか。なんかそれの凄いバージョンがめっちゃ普及しており、人々の目に映る世界が過度に幻想的なものとなった近未来の物語だ。

 なんか「気に入らないコンテンツ」を見かけたらその場でバッテン形作ることによって、こう、ヴァルナカウンターなるものが上昇し、一定以上上昇しすぎたアカウントは削除されて社会的に死ぬ。そうゆう世界で、「いやそんなんおかしいよ! 表現者が委縮してありきたりなものしかできないなんて間違ってるよ!」と主張する人物はいる。だが、そいつは主人公ではない。普通、こういう題材なら主人公を表現規制反対の立場に据えるものだと思うのだが、そうではないのだ。

 かといって表現規制反対派を敵視しているわけでもなく、「やりたいならやれば? 手は貸さないけど」ぐらいの距離感なのである。

 つまりなんであるか。我々オタクは、常に表現規制に対して否の立場を取り続けてきた。「いやなら見るなバーカ」である。その気持ちは今も変わっていない。変わっていないが、この主人公を見て、新たな思考が芽生える。「私の気に入らないコンテンツはこの世から抹殺するザマス!!」とかほざいてんのは疑いなく幼稚な不寛容さの産物でしかないが、しかし、それは「うるせえ!! 人の気持ちなんか知るか!! 俺は俺のスキを表現する!! その結果どれだけ人が不快になろうが知るか!! いやなら見るなバーカ!!」という言説と比べて、果たして優劣のあるものなのか。どちらも救いようのないポジショントークであり、ただの説得可能性のない感情論であり、そういう議論を丁々発止とぶつけあってんのは幼児の喧嘩と何が違うのか。つまり、後者の主張が前者の主張より絶対的に正しいとする根拠が果たしてあるのか。

 たとえば、「人が嫌がることをする」のは疑いなく悪いことだ。

 では「人が嫌がることをする」のと「人が嫌がるコンテンツを発信する」ことの差はどこにあるのか。

 明白な違いは「目的」である。

 人の嫌がるコンテンツを発信している奴は別に嫌がらせるために発信しているわけではないのである。悪気はないの!! 許してあげて!!

 いや許されていいのか? 動機の違いなんてどうでもいいのでは? 問題なのは「人を不快がらせた」事実であって、行為者の頭の中がどうであるかなんて考慮すべきではないのでは? という考えに対して、俺は明白な反論を行えないでいる。

「表現規制派も、俺たちも、ただ気に食わないから相手を攻撃しあっているだけだ。そこに道義的な優劣なんかない」

 物語初期における主人公の立場はこれである。ほかならぬアニメの主人公が、こんなことを言ってしまうのである。

 不快だからと言ってこの世から根絶せよというのは横暴である。これは正しい、と感覚的には思うが、しかし、例えば全人類が一人の例外もなく不快と感じる行為があったとして、果たしてそれは守られるべきなのか?

 つまり、「害」と「不快」をどう線引きすればいいのか?

 害がなぜ害であるかといえば、不快を招来するからである。人間の主観においては「快」と「不快」しか存在しない。殺人は、すべての、とまではいかねども、ほぼすべての人間にとって不快であるから禁じられているのだ。では、殺人を禁じるのが通って、表現規制が通らないのはなぜか? 理由を説明できるのか? どういう理屈で表現規制反対を正当化すればいいんだ? 結局のところ程度の問題でしかありえないのではないか?

 現実とフィクションの区別を付けろ、とよく言われますが、それがまぁ一般的な考え方であり、多くの人間に賛同されうるところであるのは重々承知していますが、しかし俺はこの考えには完全には賛同できないんですよね。

 フィクションは現実ではない。それはまぁそうなんですが、何らかの形(紙媒体なり電子媒体なり)でフィクションが存在していることは現実であり、それを摂取して感動した俺がここにいるということもまた現実である以上、フィクションは現実を構成する一部であると言える。

 この理屈を「表現規制ザマス!」な人たちに同様に当てはめると、不快なフィクションが存在していることは現実であり、それが目に触れて不快感を覚えたこともまた歴然とした現実であるわけですな。つまり、ザマスたちにとって不快な精神的暴力を受けたという「害」は実在している。いや、「ザマスたちにとって」などという枕詞を付ける必要はない。ありとあらゆる観点から言って、「フィクションによる害は現実である」と言っていいと思う。腕力による暴力は現実であり、言葉による暴力も同様に現実である以上、フィクションによる暴力だけが自明のように特別視される理屈には違和感を覚えるのだ。

 だが、ザマスたちの主張はあまりにも的外れであり、現実の好転に何ら寄与しない妄言、幼稚な攻撃性の発露に過ぎないことは論ずるまでもない。だが、では「フィクションは現実ではない」という主張を無条件で前提にして、果たして良いのか? というのが、どうにも、断言ができない。

 『レイゼロ』の、「極めて高度に発達した拡張現実」という設定は、このあたりの葛藤を浮き彫りにする装置としてめちゃくちゃ優秀である。

 表現規制と、それへの反対を同列の理屈で論じるという視点。俺たちオタクは表現の自由を守ることを議論の余地なく正義だと疑ってこなかったが、実はそうではないかもしれない。ただ俺たちの方が力が強く、数が多く、経済効果を生むから表現規制派の成果を封殺してこれただけなのかもしれない。そこに道義的正当性など本当はないのかもしれない。そうゆうことを考えるきっかけとなった興味深い作品であった。

 だが、その上で。

 俺はあらゆる表現規制に反対するし、俺のスキを表現するためならたとえどこかの誰かを傷つけることになっても構わないと思うし、胸ひとつ痛める気はない。この思いは明らかに正義ではなく妄執だが、俺はこれに殉ずるつもりである。

 そうゆう小難しいことを抜きにして『レイゼロ』を語るならば、各人に「ACT」と呼ばれるスタンドめいたなんかが備わっており、主人公のスタンドがマジでカッコよく、後半に登場する進化形態はさらに失禁するほどカッコよく、それがものっそい動いてものっそい戦うのでもうこれは事件ですよ。ラスボスも主人公に劣らぬ説得力の主張をもってぶつかり合ってくれたのもめちゃくちゃ良かった。

 というわけでいかがですか、『レイゼロ』

 第一話は30分枠だけど、二話以降は15分なので短く見やすいぞ!


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