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最近、陽射し自体は夏の存在感があるのに、風は意外なほどに冷たく、気温差に振り回されている。
ただ、この時期の空気感は嫌いではない。
日頃は生活をこなすのに精一杯で、あれこれ考えたり情緒に耽る余裕もないが、今みたいな季節の変わり目にはふと足を止める機会がある。

少し前に、遺影をAIで動かすという話を見た。
そんなこともできるのかというぐらいの感想だったが、SNSでは反発する意見が多数だった。
本当の記憶が偽物に上書きされるとか、死を悼む権利すらAIに奪われるとか、そういう声だったかと思う。

下手に触れると、本当の記憶が上書きされてしまう。

学生時代に聴いていた歌を聴き直した時、その機会が少ないほど当時の記憶が色濃く蘇ってくる。
子供の頃に熱中したゲームは、画面や音だけで童心に戻れるが、他人の配信等で毎日のように画面を見ていれば、そんな情緒もなくなる。

今年の大河ドラマの紫式部は、物語が実体験を元にしているのかと問われ、物語にした時点で過去と創作の境目が曖昧になると答えていた。

それはそうだと思う。
特に物語の種にするともなれば、記憶を細部までこねくり回すことになる。
そうして物語としての形に仕上げた時点で、本来の記憶は細切れになって形を残さない。

記憶というものは本当にあやふやで、箱を開くたびに古い空気が抜け落ちて、思い出すたびに現代の指紋が付いてしまうように思える。
なら、上書きしたくない記憶は蓋をしたまま眠らせておくのが良いか。

最近古い日記を読み返す機会があり、すっかり忘れていた出来事を拾い直すことができた。
今の自分にとってプラスだったと思うし、何より琴線に触れるものがあった。
昔と比べて感性が鈍り、季節の変わり目にふと顔を上げるような生活の、彩りとなったのは間違いない。

あまり記憶に潜ることに夢中になっても、今に繋がる生産性はない。
逆に失われないように大事に封じていても、そのまま忘れていくなら元からないのと同じ。
たまにページをめくって味わうぐらいの距離感で触れるのが、ほど良いのかもしれない。

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