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やさぐれエンジェルと天国の七階:第三話

 翌朝、晴れた空を見上げると、空の遥か高いところに王冠の形をした雲が渦巻いていた。
 天の第二層だ。

 壮大な眺めだ。あの上までたどり着けたらどんなもんだろうと想像をめぐらしていると、首からIDカードを提げた二人の使いがやってきた。
 胸ポケットのある半袖シャツに紺色のズボン。
 これまた、電気料金を測りに来た係員みたいな感じだなあ。

 一人は水筒と弁当箱を沢山入れたカートを押していて、もう一人は巻物を脇に抱えている。一人が巻物を読み上げて「到着者」たちに次々と仕事を割りふる間、もう一人が水筒を配っていった。

 俺たち「到着者」は、第一層の役人たちの雑用をこなすことで、天国船に置いてもらえるのだ。働くのを拒否すれば地上に送り返されるという。
 もちろん望んでまた下界に帰る者もいるが、大体が何か理由があって天への飛行を強行した者たちなので残ろうとすることが多い。

 俺が割り当てられたのは「校正作業」だった。文書の誤字脱字チェックでもやらされるんだろうか。
 細かい作業は苦手なのでややうんざりした気持ちになった。
 他の連中は、天使の輪みたいなゲートの掃除や、ゲートの見張り、コピー用紙の補充、コンピュータのメンテナンス、書記などを割りふられている。

 一緒に行くことになったのは、昨日はほとんど喋らなかった、アロイという名前の女性だった。赤い髪のショートカットで二十五歳くらいか。
 黒ずくめの服に、耳には太いピアス。ロックミュージシャンみたいな出で立ち。黒い目の奥にほとばしる火花のような煌めき。
 物静かだが、猫科の猛獣みたいなしなやかさと危険さを感じさせる女だ。兵士か何かだったのだろうか。
「なんだか一番単純な仕事を任されちゃったなあ」とぼやく俺をなだめるようにアロイは言った。
「最初だからしょうがないよ。でも、技術や能力が認められれば、役所の室内仕事が任されることもある。特に書記なんかになれれば、そのまま役人として登用されることだってあるし」
 耳寄りな情報に、気持ちがまた少し浮き立った。
 書記になれたら、もっと天国の内情について知ることができるんだろうか。
 俺は、その道を目指すべきだ。
「校正も、そこまで単純な作業じゃないよ、ある意味」
 アロイは続けた。どういう意味だ?

 俺たちは無花果みたいにガサガサした大きな葉をつけた大木に囲まれた石造りの広場に連れていかれた。
 真ん中に台が二つ用意されている。
 四角いプラスチック張りの箱の中に、色とりどりのボールが移動している。ビリヤードみたいだ。
 見ていると、一つのボールが赤く点滅を始めた。
「これ。光ってるやつをこうするの」
 アロイが猟銃のような長い得物を肩に担ぎ、狙いを定めて撃つ。
 ぽふっと、丸い煙が飛び出して、箱の中に飛び込んでいき、光っているボールにぶち当たる。
 ボールは弾かれ、コースを変えた。
 点滅は収まる。
「シューティングゲームみたいだな、これが校正?」
「うん」
 楽しい仕事でよかったと思っていたが、一時間も経過すると、だいぶ腕が疲れてきた。
 昼休憩が来てほっとした。
 俺たちは広場のベンチに並んで腰かけた。
 支給品は、卵とレタスとトマトのサンドイッチ。疲れているからやけに旨い。
 水筒の水を飲んで人心地ついていると、空から鳥が何羽も舞い降りてきてアロイの肩にとまった。可愛い薄ピンク色の小鳥で、首のまわりにネックレスみたいに黄色の羽毛が生えている。アロイの手のひらからパン屑をついば
み始めた。
 とたんにアロイは目元に優しそうな笑みを浮かべた。
「鳥に好かれるんだな」
「ここまで運んでもらったの。このフィンチは特殊な種類でね。高度に耐えられる肺と強靭な翼を持ってる。五十羽くらいロープにつけて運んでもらった。途中で十羽死んでしまったけど」
 一匹の背中を撫でながら悲しそうな顔をした。うつむくと、睫毛の影と目の下の隈がますます濃く見える。
 それでか。この人の翼は標準的なもので、それだけでここまでは上がってこれなかったろうと不思議だった。
 可愛がっている鳥を犠牲にしてまで、ここにきたのか。
「あんたは一体なぜここまで……」
「神様にお願いに来たの。もう一度だけ私の子に大好きだったチコリのスープをあげたいって」
 それ以上は聞けなかった。
 彼は話を変えた。
「なあ、なんであのビリヤードみたいなのが“校正”って呼ばれてるんだ?」
「あれは、運命を校正してるんだよ」
「運命って」
「人々の」
 俺はぞっとした。
「なんだよ、それ」
「人々の脳味噌の神経回路が、天国の指定する運命からずれた行動に向けて発火を始めると、ボールが光る。私たちがボールを弾くと、それは元の軌道に戻る。予定通りの道に」
「ちょ、どういうこと」
「つまり、全体としてうまく調和するように、天国は人々の運命を決めてるの」
「って、人々の運命はあらかじめ定められてるってことか」
「そういうこと」
 アロイはどこか悔しさを滲ませる口調で答えた。
 俺は自分のことを話した。
 任務中に殉職した友人を地上によみがえらせようと思っていること、それを神に直訴したいのだと。
「でも、ザキルが死んだのも運命だったのか?」
「かもね」
 俺は責任を感じなくていいってことか? 
 途端に安堵感がこみ上げてきた。
 でもその数十秒後には、入れ替わるようにして、なんともやり切れない思いがしてきた。
 すべて決められてるなら、そもそも俺たち偽天使部隊が、命の危険もかえりみずに犯罪を取り締まることにどんな意味があったのだろう。不条理じゃないか。
 そんなの、おかしい。やっぱり、神に問いただすべきだ。
 俺は決意を新たにした。
「アロイ、あんたは、オレが昨日神に頼みごとがあるって話した時、笑わなかった。ということは、あんたも神に会える可能性があると思ってるんだろう」
 アロイはこっくりうなずいた。
「とても、難しいかもしれないけれど」ゆっくり言って膝の上で両手を握っている。
「本物の天使が時折この層にも降りてくるんだろ。オレ、その天使に直訴してみるよ。何か神に会える糸口があるかもしれない」
「そんなこと、できるのかな」
 アロイは彼を見た。その目はきらきらと光り、不安と希望がないまぜになっている。
「やってみる」
 彼は答えながら、アロイに惹かれているのをはっきり感じた。
 その手に、手を重ねて安心させたくなる衝動をなんとかこらえた。
 神に話をつけて、その後にアロイとその連れ子と幸せに家族を作って暮らす未来を想像した。

 俺は与えられた仕事を毎回丁寧にこなして重宝されるようになった。
 地上時間で一年経った時には、書記の一人に任命されていた。
 宮殿の運営会議の端で、羽根ペンを持ってノートに向かう。
 一層目の仕事は、この巨大な七層におよぶ宇宙船のための資源確保が主であるらしく、貴金属や化学合成物質などを地上から調達することなどが会議の内容だった。
 新たに死んだ者たちの魂を見かけないと思ったが、死者の魂が天国に来ることはないらしい。じゃあどこに行くんだと聞いても、誰も知ってるやつはいなかった。
 この天国は、あくまでも物理的に地上と同じ空間に存在しているんだ。あの世があるとしても、また次元が違うらしい。

 とうとう、二層目から本物の天使が降臨する日。
 みんな宮殿の外に立って並び、色とりどりのピエロみたいな格好をして、笛や太鼓を鳴らす。歓迎と祝福の表現。
 やがて澄み切った青空の一点に白い雲が湧き出たかと思うと、どんどん大きくなって渦巻き、風の音が完全に音楽を覆い隠した。
 風は唸りをあげて吹き降りてきて、帽子をかぶっている者はそれが吹き飛ばされないように押さえつける。
 雲は次第に、翼の形を取り始めた。
 直径百メートルはある五枚の翼が台風のように渦巻いている。残り二枚の翼は、マントのように天使の顔と体を覆い隠していた。
 地上に大きな影を落としながら、この巨大な翼のかたまりは役所の上に垂れ込め、その屋根に吸い込まれて消えた。

 次の瞬間、役所の大ホールに据え付けられた豪華な椅子に、大きな天使が座っていた。
 雲になってやってきた時よりも小さくなっていたが、それでも身の丈は立って十メートルはあるだろう。
 長いウェーブの髪は早朝の金色の太陽の色だった。目の中では花火が踊るように色とりどりの光が爆ぜている。
 衣服は浅瀬の水のように輝く銀色だったが、その三分の二は美しくしっとりした純白の羽根で隠されていた。霧のようなものが身体の周りを巡回している。
 顔は男か女かわからない、天使に性別はないのだろう。

 天使は、定期監査に訪れたのだ。
 連日、記録書類をめくり、テレパシーを使って役人たちに質問をしている。
俺は、ホールの片隅で役人の回答を記録する役目だ。もちろん、この大きなチャンスを逃す気はなかった。
 ただ、監査会場では同僚たちが厳しい顔で並んでいて、とても天使に駆け寄って訴えることはできない。俺は、天使の夜間控え室、つまりは寝室に忍び込むことを決心した。

 *

 夜にみんなが寝静まった頃、俺はわら布団を抜け出して、ブルーグレーの星明かりの下、宮殿の方に向かった。

 長い廊下を進んでいき、抜けたところに礼拝堂があった。そこが寝所だ。
 小さな庭がランプに照らされている。植え込みの柵には蔓が絡まっていた。円筒形のつぼみが割れて紫の花びらと糸くずのような雄しべがはみ出している。時計草か。
 その隣に生えていたベリーの実を一つむしって口に放った。じんわり甘い果汁が舌をうるおして心を落ち着かせる。
 鍵はかかっていなかった。天使を襲う身の程知らずなど誰もいないからな。
 部屋の中は、天使を迎えるためにベンチや演台が取り払われて、大きな寝台が窓際に置かれていた。
 星明かりが窓の格子模様から入り込んで、床にレースのような影を投げかけている。

 天使は昼間は巨大だったが、今は普通の人間の大きさで寝台の上に横たわっていた。そろそろと近寄ると、その美しい顔は規則正しく寝息を立てている。
 なんだ、俺たちと変わらないじゃないかと思った瞬間、その目が開いて俺を見た。
 皮をむいたばかりの葡萄のように、ぬめぬめと光を宿している。
 俺は途端に動けなくなった。金縛りってやつだ。
 天使は星明かりと同じ燐光を体の輪郭から発し、横になった姿勢のままベッドの上からわずかに浮き上がった。
 ブランケットかと思ったものは翼だった。天使が胴体を包んだ翼をゆるめると、細やかに並ぶ羽根が側面にしだれる。

<頼みごとにきたのだな>天使はテレパシーで言う。
<お前の思いはホールで感じ取っていた>
「私の願いをご存じなのですか?」と聞くと、天使はザキルの姿を頭の中に送り込んできた。
 俺は、そのイメージの鮮やかさに懐かしさを覚え、胸が熱くなった。
「そう、そうです。私の命を差し出してもいい、彼をよみがえらせてください」
<ならぬ>
「しかし……しかし彼にはフィアンセもいたんです。彼が帰ってくることを今でもずっと願っているでしょう。あなたが本物の天使ならできるはず。お願いです、もう一度、ザキルを……」
<ザキルは今、安らかに休息している。地上にわざわざまた呼び出すことはない>
「そんな」
<元々、ザキルはあの時に死ぬ定めだった。それがどういう形であれ。天国理事会が決めた運命には逆らえない>
「それって……おかしくないですか。じゃあ、俺たちが悪を取り締まってるのにも何も意味がないことになっちまう。悪い奴は、そういう定めで元々悪事を起こすということになる」
<その通りだ。神の意志は人間を超えている。時折、悪を犯すための悪人を地上に投入することもある>
「そんな、俺たちの戦いは無駄だったってことか」
<否。戦闘の時に生じるエネルギーが、結果的に世界の均衡に役立っているのだ。これで救われないか>
「そんな馬鹿な」
<理解しなさい>
 天使は立ち上った。
 アルプス山脈のように聳え立つその姿から、強く風が吹いてきた。
 ハリケーンみたいだ。
 俺の体はすごい風圧に押されて部屋の戸口の方に押し戻される。

 ああ、ここでオレは天国から落とされたんだっけか……いや、違う、まだここでは落ちていない。

 気付くと、俺は礼拝堂の入り口で両手を地面についてぐったりと座っていた。半ば頭が空白になったような思いで首を振り、薄暗い廊下を来た方へ戻る。
 長い廊下を歩く途中、ある部屋の入り口から明かりが漏れているのに気付いた。
 何気なくそちらに近づいていくと誰かが低い声で話しあっている。
 俺は、入り口のアーチの横にはりついて耳をそばだてた。
 宮殿のトップであるエレナと、彼女を補佐するモイラの声だった。
 何かの段取り……どうも業務の引き継ぎについて話しているようだ。
 エレナは引退するのか?
「第二層に……からは、もうコンタクトが取れなくなります」
「儀式の段取りは……」
「ごく少人数だけで……」
 途切れ途切れに聞こえる。
 俺はもっと声がよく聞こえる位置を探り当てて全身を耳にした。
「秘薬は…あの大燭台にあるのでしたよね」
「ええ、そこに保管されています」
「今回の訪問は表向きは監査ということになっている。みんなには知らせぬように……」
「ええ、内々で……ここで最後まで勤め上げたら、第二層に昇れることは、幹部しか知らないことですから」
「あなたが昇ってくるのも、そう遠くない日になることでしょう」
「いえいえ、それはまだ先の話で……私は当分ここで勤めさせていただきます。あの秘薬は遺伝子をたちどころに変えるのでしたかな」
「そうです。飲んだ者の全身の遺伝子がたちまち変化し、より神に近い天使となる。ただ、普通の人間には無理です。我々のように生まれた時に翼を植え付けられた者に限ります」
「決行は明後日、どうぞお気をつけて」
 俺は革新的な情報を耳にして、釘付けにされたように動けなかった。
 しかし、二人が出口に向かってくる衣擦れの音にハッとして、静かに外の暗闇に身を隠した。

 翌朝すぐに、耳にしたことをアロイに打ち明けた。
「本物の天使、あいつらも元は人間だったんだ! 遺伝子を爆発的に変化させる技術を使って、身体をアップグレードしていただけだってよ」
「つまり……、私たちも本物の天使になって、上に昇っていける可能性があるってこと?」
 アロイの目に希望の光がきらきらと踊る。
「うん。やっぱり可能だったんだ。みんな笑ってたけど。生まれる時に生物工学的に羽根を取り付けられた人間だけに反応する薬みたいだった」
「大燭台にあるんだ?」
「ねえ、僕と君二人で今夜、取りに行かないか。中身を二人で飲めばいい。明後日には、あの薬は飲まれてしまう。チャンスは今しかない。君も僕もここまで上がってきたんだ。あの燭台の高さまで行くなんてわけないだろ」
 アロイは少しの間沈黙した。成功するかどうか計算しているようだった。        
 やがて顔を上げた。
「可能性に賭けるしかないね」
 彼女の凛とした微笑みには凄みがあって、俺はぞくぞくした。

 夜明けの三時間ほど前に、俺たちは出発した。
 しばらく飛んでいると、前方に燭台の光が見えてくる。
 岩山の上に巨大な皿が設置されていて、昼夜ずっと炎が燃えている。
 第二層以上からここ一層に舞い降りてくる時の道しるべになっているという話だ。
ビルの十階くらいの高さがあったが、俺たちは翼を羽ばたかせて、簡単にそこまで昇れた。アロイに、純白のきれいな羽根を広げた姿を見せられるのは気持ち良かった。我ながら孔雀の雄みたいでどうかと思うが。

 燭台の皿は赤銅色で直径五メートルほどある。青い炎がその真ん中でパチパチと燃えていた。
 焔の指の間に香水瓶のようなものが垣間見える。
 アロイが炎に手を伸ばし、炎のトゲに指を刺され「あつっ」と引っ込めた。
「こんなに燃えてちゃ、無理かな」
 残念そうにため息を吐く。心なしか、背中の羽根も萎れている。
 次に俺も試したが、炎か三十センチのところまで近づくと、電撃のように鋭い熱さが皮膚を刺す。
 蛇にでも牙を立てられるようだ。指や足先に、じんじんした感触が後を引いた。
 俺は、がっかりしたようなアロイの姿にぎゅっと肋骨が締め付けられた。
 何か自分にできないものか……。
というか、俺だって、あの秘薬を入手する必要があるのだ。あんなに目の前にあるのに、このまま帰れるかよ。
 あることを思い付いた。
「俺の羽根、取り外せるんだ」
 そういって背中に手をまわして留め具を外し、高級毛布のようにふわふわの翼を抱える。
「うわ」
 アロイは大きな目をますます見開いて感心している。
 おずおずと手を伸ばし「綺麗な動物みたい」と言って撫でてくる。
 俺は嬉しくなって、勇気が湧いてきた。
「どうだろう、火には酸素を失うと消えるって性質がある。この羽根で火を覆ってしまえば、勢いが衰えるんじゃないか。俺の羽根を最大に広げれば、この火なんかほとんど覆ってしまえるし」
 アロイの目に鋭い光が戻った。
「その羽根、神経が通ってたりはしないの?」
「しないよ。完全に人工物なんだ。だから熱なんて感じない」
 多少焦げてしまう可能性があるが丈夫にできているはずだ。
きっと、修理すればまた使えるはず。何より、秘薬を飲んでしまえば本物の天使になれるんだから、この翼も不要になるのだ。
 俺は翼を扇のように広げた。
 今や地平線はうっすらと明るくなってきていて、夜明けの始まりの光に照らされた翼はいっそう美しく見えた。
 奇跡を起こしてくれそうなほどに、強く美しく。

 俺は大きく深呼吸してから、翼を炎の上に放り投げた。
 狙い通りだ! 
 炎はしゅわしゅわと奇妙な音を立てて弱まっていく。
すかさず俺は翼の下に手を伸ばして、電撃のような痛みに耐えながら、くすぶる秘薬の瓶をつかみとった。
 アロイがタオルを用意して待っていたので、そこに瓶を預け、腕にさっと目をやる。
 黒焦げになってしまったかと思ったが、赤く腫れている程度だ。
 すぐに翼の端を引いて、炎の上からどけた。
 炎が消えてると、奴らに見つかってしまうからな。
 青い炎が再び立ち上がった。

 翼の表面は熱かったが、色は純白のままだった。特に煤も付いていない。背中に装着し直すと、翼と背中の間には十センチほどあるが、じんわりと熱が伝わってくる。
 もう冷えたのか、アロイはもう瓶を素手で持っていた。
 その中には、小さい頃に花びらを水に浸して作った色水のような液体が揺れていた。
「どのくらい飲めばいいのかな」
「ぜんぶを、半分ずつ飲めばいいんじゃないか」
 多すぎたり少なすぎたりした時、何が起こるんだろうか。まったく分からない。
 でも、ここまで二人でたどり着いたんだ。
 二人で飲むのがふさわしい気がする。
 アロイはあいかわらず夜間の猛獣のようにキラキラと光る目で俺の方を見つめた。
 そして、仰向いて秘薬を喉に流し込んだ。
 ……そのすべてを。
 空になった瓶を炎の方に放ってアロイは囁いた。
「ありがとう……ごめんね」
 俺が何か口にできる前に、すさまじい突風がアロイの方から押し寄せてきた。
 俺はあっという間に大燭台の上から吹き飛ばされ、宙に舞っていた。
 仰向けにブルーグレーの空を見上げ、横殴りの風に飛ばされていく。

 頭を起こして燭台の方を見やると、そこには台風のような雲が渦巻いていた。
 雲が回転するたびに、何枚もの翼の形が明瞭に浮き上がっていき、渦巻きながら、雄大な動きで羽ばたいて、ぐんぐん天へ昇っていく。
 やがてほとんど見えない点になった。
 彼女は確実に本物の天使になれるよう、だいじをとって全量を飲み干したのだろう。

 俺は裏切られたのかもしれないが、特に腹は立たなかった。彼女が子どもに会い、そしてスープをもう一度飲ませてやれたらいい。
 昇っていく姿が頼もしいくらいだった。

 雲がごうごう過ぎていく。
 辺りが少しずつ暗くなってきた。
 どうやら天国船の外まで飛ばされてしまったようだった。
 暗い空に星々と、途方もなく巨大で透明な船の姿が浮かんだ。

 彼女はその第二層に昇っていく。
 そしてその後は? 
 本物の天使でもたどり着くことはできないかもしれない第三層へ、さらにその上に、彼女はどうやってたどり着くのだろう。
 きっと彼女なら、あの強いまなざしをしたアロイなら、神にも会うことができるかもしれない……。
 誰かキャンプ地から、宮殿から、アロイの旅立ちに気付いている人々はいるのだろうか。朝が来たら大騒ぎになるだろうな。
 俺はおかしくなって風の中でくすくす笑った。
 俺はしばらく横方向に飛ばされていたが、ついにアロイが本物の天使として誕生した時の風が尽きて、体が落ち始めた。

 地面はまだまだ見えなかった。
 天国船の外に出てしまったら、落ちてたどり着くのは地上の地面だ。
 俺は背中の翼を広げた。それはすぐに風をとらえてしなり始める。

 旋回して、少しずつ降りていこうと思った。
 けれど異変が起きた。
 羽根のしなりが、あまりにもやわらかい。おかしいぞ、と思うまもなく、何本か羽根が翼から抜けて、漂い出ていく。
「あの炎のせい?」
 青い炎は、翼をその場で燃やしはしなかったものの、内部に熱を押し込めていたようだ。
 もう一本、もう一本、少しずつ確実に、羽根は抜けていった。
 俺は滑空しながら、ゆっくり高度を下げていく。
 羽根は落ち続ける。
 やがて、懐かしい匂いがする大気に包まれ、雲海が一面に広がり、それも抜けると一番高い山々の雲をまとった峰が見えた。

 そして、そうだった、こうして俺は落ちていた。
 俺は世界に向かってぐんぐんと落下していく。
 大地は昼間の太陽に照らされていた。

 空気の温度が上がり、やがて耐え切れないほど熱くなる。
 羽根は、ぽたぽたと液体になって、次々と地上に滴り落ちていく。
 雲の層を突き抜けた時も、スピードはゆるまらなかった。大鷲が彼の顔をかすめ、突然降ってきた者に文句を叫んでいる。

 どうして落ちることになったのか、と俺は思った。ただ、ザキルを助けたかっただけなのに。
 違う、そうではなくて、ただ自分自身が救われたかったんだろうか。
 でも、元はと言えば、あの商人にそそのかされたのではないか? 
 自分と羽根を交換しようと持ち掛けてきて、神のいる高みにまで昇れるなどと人をたぶらかすようなことを言った。
 それとも、元の羽根がくすんできた時点で、自分の運命は決まっていたのだろうか?
 いや、最終的にそれが決まったのはアロイが本物の天使に変身したからだ。天に昇っていったからだ。
それなら、構わない。
 ザキルの身代わりになる代わりに、彼女を助けることになっただけのこと。

 蠟がさらに溶ける。
 羽根はガタガタと軋み、見ると端の方はフレームが突き出ている。中ほどにも穴が開きつつある。まるで壊れた折りたたみ傘みたいだ。
 地上で人々は、この降ってきた蝋について何と話すのだろう。神のメッセージだとでも話し合うのだろうか。
 俺は天国船の中にいた。地上に生きる者たちの運命は天国が定めていたけれど、天国船の中の者の運命は定められてなかったはずだ。
 ということは、俺が地上に落下することも予定外だったはずで、そんな予定外の落下から、なんだかとんでもない運命の変転が起きるのじゃないか?
  
 そう、神に対する全面的な反乱だとか。
 もしかすると、あの商人はそれを狙っていたのかもしれない。

 それにしても、本当に天国の第七層に神はいたのだろうか。
「本物の天使」も、遺伝子改変の秘薬というテクノロジーで作られていたのなら、その階層の究極の最上位にいる神も、もしかしたら人工ということはないのか?
 神は本当にいるのだろうか? 
 もし神が本当に存在していないのだったら、オレたちは一体今まで何に仕えてきたんだ。
 誰のために戦ってきたんだ。
 溶けかけた翼が風を切る凄い音と風圧の中でそう思う。
 まあいい、それはきっとアロイが見出してくれるだろう。
 アロイの黒い瞳を思い浮かべながら、俺は不思議に満足した安らかな気持ちで落ち続けていた……。

――了――

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