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ヒメジョオンの花で思いだす、京都の美人占い師

5月が深まるころ、ヒメジョオンの白い花が斜面を埋めつくす。地面から1メートルほどの高さまで真直ぐに茎を伸ばし、いくかの小さな花をつけている。それらが風でゆらゆら揺れていた。
僕はときどきマンションの裏のベランダにでて、ほんのわずかな時間、頬杖を突いて、この群生を眺めている。繁殖力の強い野草だ。花のあとに実を結ぶと枯れてしまうのだけれど、1株がつくりだす種は膨大な数にのぼる。毎年、この花が斜面をおおうのもそのせいだ。

繁殖力という話をしてみよう。
ある銀行系のシンクタンクによると、占い業界の市場規模は約1兆円にのぼるという。市場規模でいうと、エステ業界が3500億円といわれる。全国に100局ほどあるラジオ局も、その業界規模はこれと同じくらいだ。占い業界はすでに、それらの3倍近くにまで脹らんでいる。新聞業界や出版業界はこれより大きく、それぞれ1.6兆円程度の規模だ。占い業界とはまだ差はあるが、占いの潜在需要を考えると、この業界が数年のうちにこうした既存産業に迫ることはじゅうぶんに考えられる。

先斗町の占い師

むかしなら薄暗い路地に小さな机をおいて、占い師がじっと客を待っていたりした。
京都を代表する花街のひとつに先斗町がある。鴨川に沿うようにして長さ500mのほどの小路がつづき、両脇には町屋ふうの店が軒をならべている。いまはこの狭い通りに人がおしよせ、しかも欧米系の観光客がきわめて多い。こうしたインバウンド・ブームが訪れる以前のことだ。
そのころの先斗町も、夜の浅い時間にはそこそこ人通りがあって、花街らしい華やぎがあった。しかし、夜が深まるにつれて人影もまばらになり、黄ばんだ街灯が寂しげに石畳を照らしていた。

この通りのちょうど真ん中あたりに、小さな公園がある。その入り口に小さな机をおいて、占い師が座っていることがあった。それを記憶しているのは、めずらしく若い女性だったからだ。そのころ僕はまだ二十歳前後だったので、彼女は6つか7つほど年上に見えた。
冬のはじまるころだっただろうか。彼女は通行人を見るわけでもなく、うつむき加減の姿勢でじっと座っていた。なかなかの美形だったことが、かえってその姿を寒々しいものにしていたのを覚えている。

僕は鴨川の見える公園にはいって、タバコを一本吸った。ちょっと彼女のことが気になったせいもあるだろう。やがて年配のサラリーマンふうの男がひとり、彼女のまえに立った。かなり酔っぱらっているようだった。
「ねぇちゃん、占ってくれるか」
というようなことを、男は口にした。女占い師は男を見て、うなずく。
「どうぞ、おすわりください」
「おうっ、べっぴんさんやなぁ。そやけど、もうちょっと笑てんか」
詳細は忘れたが、そんなやりとりだったように思う。
男の言葉に、しかし彼女は笑顔をみせなかった。酔っぱらいの絡みが面倒だったのか、もともと愛想がないのか、あるいは緊張していたのか。ちょっと嫌な間があった。
「もう、ええわ」
男は吐きすてるようにそういうと、立ち去ってしまった。

なんだか不憫だった。男にたいして、いくらか苛立ちもあった。しかし、僕は近くでそれを眺めていただけだ。正義感ぶって酔っ払いに文句をいうのも変だし、どうすればいいかよくわからず、結局ゆっくりその場を離れた。喉が渇いていたので、自動販売機で温かい缶コーヒーを買った。手にとると、そのぬくもりが心地よかった。
そのあと、すこしためってから、もう1本同じものを買った。みずからの思いつきが、まだ若かった僕には、ずいぶん気障に感じられたし、拒否されることを恐れる気持ちもあった。それでも、僕はその缶コーヒーをもってあともどりすると、若い女占い師にそれをわたした。
たぶんわたした。缶コーヒーを買ったのははっきり覚えているのに、不思議とそのあとの記憶はあいまいだ。
缶コーヒーはわたしたはずだ。ただし、そんなにスマートではなかったのだろう。いまならひと声をかけて、サラっとねぎらったりもできるけれど、それはそれでまた無粋な気もする。二十歳のころの僕は、缶コーヒーをポンっとおくか、彼女におしつけるようにして、あたふたとその場をあとにしたのかもしれない。

これが、はじめて占い師に接したときの思い出だ。そのときは、まさか自分自身が占い師をするなど、まったく考えもしなかった。ただ、彼女を見たときの感覚はよく覚えいている。すこし華やいで、すこし不憫だった。

増殖するIT系の占い

そのころにはすでにビルの一角にスペースを設け、「占いの館」などというものがあらわれはじめていた。数人の占い師をプロデュースして、零細ながら企業という枠組みのなかでビジネスをするのである。ただし、現実の空間を必要としているあいだは、その需要もかぎられていただろう。
これを打ち破ったのが、コロナ禍での外出禁止だ。リモート環境がいっきに広まることで、社会全体が大きな転機を迎えた。占い業界もその流れをうけ、技術的にも感覚的にもリモート占いの条件が整ったわけだ。
電話占いやチャット占いが急拡大し、いまもその市場は拡大しつつある。ビジネスとしての成長が見込まれるとあって、大手から零細までIT系の企業がつぎつぎ参入している。

もともと潜在需要があったのだろう。そこに火がついて、占い事業が強い繁殖力をもつことになった。クライアントのほとんどは女性だ。年齢層は10代から70代までと幅広い。スマホさえあれば、匿名のまま、顔さえ知られずに、どこからでも簡単に占い師にアクセスできる。クライアントの数はいっきに拡大した。

ということは、プロの占い師も急激にその数をふやさなければならい。急ごしらえの占い師もいれば、密かに技術を磨いてきた素人占い師がプロデビューという場合もある。
どんな占い師であっても、最初は手が決まらず、相談のたびにあたふたするはずだ。自分の占い手法が定まらないのである。占い師になりたての20代の女子が、50代の女性の人生相談にのる姿を想像してみてほしい。常識的に考えれば、無謀だし滑稽だ。しかし、これがしばらくすると対応できるようになってくる。
多くの占い師は複数の占術をもっている。たいていは相談の内容を聞いて、占術の判断をする。あるいは、メインの占術を軸に、ほかの占術をサブ的につかいながら、相談にたいするこたえを導きだしている。

たとえば、関係があいまいな彼がいるのだけれど、その気持ちを知りたい、という依頼があったとする。僕の場合、この相談ならまずタロットカードに手を伸ばす。
タロットは78枚のカードがそれぞれ意味をもっている。カードをくったあと、1枚を選びだして、相談内容に見あったこたえを導きだしていく。そこではカードの読解能力とともに、相談内容そのものの構造を理解して、適切な意味を読みとり、表現することが要求される。結婚の時期を知りたいといわれれば、これは誕生日や誕生日時から判断する占星術や四柱推命のほうが、こたえを得やすいだろう。

占い師によっては、相手の気持ちを問われて、霊感一発、「その彼は、あなたと親しくなりたがっているけれど、じつは奥さんがいます」なんていうのもあるかもしれない。いまの日本ではスピリチュアル系の占いが人気で、どこか胡散臭くて怪しいという目で見る人も多い。
なかにはインチキ占い師もいるだろうが、それは稀だと思う。でたらめをやって通用するほど甘くはない。それはどの世界でも同じだ。すぐに見透かされ、クレームがはいるなどして、淘汰されてしまう。でたらめや詐欺といった誤魔化しによって、世界各地しかも長い歴史のなかで占いが生き残れてきたはずがない。ほとんどの占い師はそれぞれの占術にそって、ルールや技法を守りながら、真摯に相談にこたえている。
たかが占い、されど占いである。

ちょっと調べてみると、ヒメジョオンの花言葉は、素朴で清楚。
日本では、貧乏草などと呼ばれることもあるけれど、小さな白い花弁がきれいにより集まっている可憐な花だ。にもかかわらず、美しく手入れされた庭では見ることがない。たいていは、道端や放置された空き地などに生えている。この花のそういうところが、僕はとても気にいっている。
路上の占い師みたいじゃないか。
人通りの少なくなった深夜の花街にいた、あの占い師のことがふと頭に浮かぶ。
すこし華やいで、すこし不憫なのだ。

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